統合失調症の私が伝えたい5つの事Vol10
15 隆道との出逢い
大学生活も、一人暮らしも順調だった。亜希への想いは、胸に秘めたまま、彼女には仲の良い友達として接した。前期試験が終わり、夏休みが終わり、亜希が過ぎ、やがて、冬が来た。
スナックでのアルバイトも順調だった。今で言うガールズバーで、私は働いていた。なぜか店では客からもてた。電話番号をしきりに聞いてくる客もいたが、
「家に電話がないんです」
と、いつもかわしていた。今のように、携帯もスマホもない時代だった。家には電話があったが、いつも私は、嘘をついていた。
街が賑わうクリスマスを過ぎて、新年を迎えた1月4日に、私はいつものようにアルバイトに行った。店の女の子のゆかりと二人で、店のなじみの客で修行僧の祥さんと、連れの修行僧の前についた。
「隆道です」
と、その修行僧は名乗った。
彼と目が合った瞬間、
(あっ、私この人と結婚する!)
と、何故か思った。胸を締め付けるような思いがした。
祥さんは、ゆかりの事を気に入っていた。ゆかりの電話番号が知りたくて、
「電話番号を教えてよ」
と、しきりにゆかりに言った。そして、私に、
「隆さんに電話番号を教えてあげてよ」
と、祥さんは言った。いつもは、客に電話番号を教えなかったが、その日は素直にコースターの裏に自分の番号を書いた。
次の日に隆道から電話がかかってきた。
「7日の夜に会いませんか?」
胸がときめいた。
「はい。大丈夫です」
私は答えた。隆道は、待ち合わせの喫茶店の名前を告げて、電話を切った。
7日は、亜希と私の部屋で勉強する約束をしていた。亜希が泊まりに来ることになっていた。8日は、3回生まで落としていたフランス語の試験だった。
「行っちゃだめよ!」
亜希は、怒って言った。
「フランス語を落としたら、あんたどうするの?」
きつい口調だった。本気で怒っていた。私は、隆道の事を彼女に話していた。
「1時間だけ。1時間お茶したら帰ってきて、勉強するから」
と、亜希をなんとか説き伏せて、私は隆道と待ち合わせている喫茶店へと向かった。
隆道の話は、とても面白かった。話が面白いだけでなく、聞き上手だった。喫茶店の後で行ったBARの雰囲気も良かった。私は、時間を忘れて隆道と話し込み、気が付けば時計は夜中の2時を過ぎていた。店を出て、人通りが途絶えた時に、私たちはキスをした。
タクシーでマンションに戻ったら、亜希はまだ起きていた。でも怒って、口をきいてくれなかった。次の日のフランス語の試験は、もちろん落としてしまった。
こうして、隆道との交際が始まった。といっても、彼は修行僧で、自由には会えない。彼が電話をくれて指定した喫茶店で、私たちは会った。隆道と話すごとに、私は彼に惹かれていった。それと同時に、亜希への想いは、友情へと変わっていった。
その当時は、スマホも携帯も無かった。修行道場の近くに、公衆電話があったのだろうか?彼は、時折電話をくれた。私が、たまたま留守にしていた時には、留守電に声を吹き込んでくれていた。私はその録音テープを巻き戻し、何度も何度も繰り返し彼の声を聴いた。切ないほど純粋に、彼に惹かれていた。
隆道は、大学3回生の時に父親を亡くしていた。岡山の彼の寺では、彼の母が、一人で寺を守っていた。法務のために、隆道は時折、京都から岡山まで車で帰っていた。
ある時、法務の日を一日長く修行道場の責任者に言って、彼は私との時間を作ってくれた。そして、ドライブに連れて行ってくれることになった。私たちは、高雄に行くことにした。その日も、車中で話が弾んだ。ちょうど実家の前を通ったので私は、
「ここ実家なのです。ちょっと寄って行きませんか?」
と、何の気なしに言った。
「寄りましょう」
と、隆道も軽く答えた。
実家には、房恵が一人でいた。私が隆道を紹介すると、房恵は相好を崩した。そして、お茶を入れてくれた。隆道がお茶を飲むのを待って房恵は、
「うちの娘と、どういうお気持ちでお付き合いして下さっているのですか?」
と、突然聞いた。私は戸惑った。隆道は落ち着いた声で、
「私は、結婚を前提にお付き合いさせていただいています」
と、答えた。
(けっ、結婚⁈)
私は驚いた。確かに隆道の事は好きだ。会う度に惹かれていく。でも私はまだ21歳だ。結婚なんて考えたこともなかった。
(結婚って!私にお寺の奥さんが務まるの?自信ないよ・・・)
声に出せなかったが、そう思った。そんな私をよそに、隆道と房恵は、話を弾ませていた。
「面白いお母さんだね」
車の中で、隆道が明るく言った。私たちは、高雄にドライブに行き、車の中で、熱いキスを交わした。
(信じよう!この人を信じよう!そして私の直感を信じよう!)
と、私は強く思った。
16 結婚・留年
それからは忙しかった。結婚に向けての話が進んでいった。4回生になる前に私は一人暮らしをやめて、実家に戻った。房恵はまた清明神社に行き、
「『こんなご縁はめったにない。絶対にこの人のもとに嫁がせなさい。絶対に幸せになる』って言われたわ。」
と、ノリノリだった。
「『ただし、年内に式を挙げること。年を越えたらこの縁は流れてしまう』って言われたわ」
と言って、半ば強引に式の日取りを12月10日に決めてしまった。隆道とは、私が卒業してからの3月か4月頃に式を挙げようと話していた。だが、隆道は、房恵の意向をくんでくれた。
単位をけっこう残していた私は、週4日くらいは、大学に通っていた。空いている日は、房恵と結婚の準備をした。
夏休みには、隆道の寺にも彼と一緒に行き、手伝いもした。隆道の寺は、山の中にあった。幸福感よりも、不安のほうが大きかった。
(あんな田舎で、本当に私やっていけるのだろうか?)
と不安だったのだ。でも、その不安を上回るほど、隆道を愛していた。
12月10日に、私は岡山で結婚式を挙げた。京都から、私の友人も来てくれた。亜希も来てくれた。やよいは、所属していた軽音楽部のライブで、来られなかった。初めて隆道に会った亜希は、
「葉月の旦那さんって、明るい人だね」
と、どこか寂しそうに、そして投げ捨てるように言った。私は、かつて亜希に抱いていた恋心や、彼女と過ごした日々を思って、少し切なくなった、
結婚式の後の挨拶回りなどの後、私は京都に戻り、残っていた授業に出て、暮れ前に隆道の寺で暮らし始めた。
寺での生活は、掃除、掃除、掃除の連続だった。寒さに震えながら本堂の拭き掃除をしていたら、涙がこぼれてきた。隆道の母の教子に、バケツと雑巾を渡され、
「本堂の縁側を拭いてちょうだい」
と言われたのだ。
(この生活が、これからずっと続くのだ・・・)
と思うと、涙が出てきたのだ。
友達に電話したら、みなスキーに行ったり、旅行に行ったり、楽しそうに過ごしていた。自分と比べると辛かった。嫁ぎ先の周りには気軽に話せる友達もいない。常夫たちにもなかなか会えない。それでも私は、覚悟を決めた。
(ここが私の生きる場所だ!)
後期試験を受けに京都に戻り、実家に泊まった時に、房恵は赤切れになった私の手を見て、心配してくれた。
試験が終わり、広島で忙しく家事と本堂の掃除に明け暮れていた時、大学から封書が届いた。卒業に関するものだと思って、封を開けて、私は茫然としてしまった。そこには「留年」の文字が書かれていた。
大学に通う目的が見いだせずに、1、2回生の時に私はあまり授業に出ていなかった。そして一般教養の単位を4回生まで残していた。4回生で「倫理学」の授業を履修していたのに、「論理学」の授業に出ていたのだ。先生も、レポートとかの採点をしてくれるし、一年間、全く気が付かなかった。
今では結構笑えるミスなのだが、その時は、本当に悲壮な気持ちになった。
(隆道に、そして姑の教子になんて言おう?)
うまく頭が働かなかった。
意を決して、私は二人に、留年の事実を伝えた。重苦しい空気が流れた。隆道は何も言わなかったが、教子が口を開いた。
「お寺の奥さんになる人が、留年なんて、もっての外じゃ。お寺の奥さんは、みんなの見本にならんといけんのに。恥ずかしい」
私はただ、
「すみません」
と、謝った。隆道には姉が二人いる。その姉たちは二人とも、大学を首席で卒業していた。教子はそのことにも触れた。
「ともかく、お寺の奥さんが大学も出ていないようでは、檀家さんの皆さんに格好がつかんけえ。卒業だけはしてちょうだい」
と、きつい口調で言った。
私は教子に謝りながら、
(死にたいなあ。こういう時に、人って死にたいと思うのかな・・・)
と、ぼんやり思った。
私は、常夫と房恵に電話で事情を話した。房恵は、
「もう結婚したんやから、卒業せんでもいいのと違うん?」
と、言ったが、常夫は、
「頑張って卒業しろ!金は出してやるから」
と言ってくれた。
そういうわけで、私は週に一度、岡山から京都まで、授業を受けるために新幹線で通った。レポートなどが掲示板に貼り出された時は、後輩が連絡をくれて、ずいぶん助かった。
常夫や房恵、隆道や教子にはずいぶん迷惑をかけたが、週に一度、京都に行って都会の空気を吸えることが、私にとってはありがたかった。田舎の山寺暮らしに慣れる多めのソフトランディングというか、リフレッシュできる貴重な時間だった。新幹線の窓から立ち並ぶ家々を眺めては、
(あんなにたくさん家があるのに、私は、なんであんな淋しい山の中で暮らしているのだろう?)
と、思った。