分かり合える人、分かり合えぬ人(統合失調症の私のNPO法人設立奮闘記Vol76)

「反応しない練習」 草薙龍瞬さん著

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歴史好きの長男


9日から長男が泊まりに来ています。私のところに5泊してくれる予定で来てくれています。

長男に会うのは4年ぶり!彼に会うのをすごく楽しみにしていました。

全然知らなかったのだけど、長男は超歴史好き。9日は歴史資料館に行ってきました。

歴史の本をたくさん読んでいて、すごく歴史に詳しい長男は、色々と豆知識を教えてくれます。特に天皇についての知識が豊富です。
「へー、なるほど!」と言いながら、彼と展示物を見て回りました。

10日は、考古資料館と北野天満宮と、京都アスニーへ。考古資料館は初めて行きました。ボランティアの方が詳しく解説して下さって、すごく面白かったです。展示物もたくさんあって、しかも入場料無料!京都に行かれる方は、ぜひ行ってみてください。本当に楽しいし、勉強になるところです。

長男と一緒に、北野天満宮にも行ってきました。神社って、空気感がいいですよね。なんか身が引き締まります。長男も楽しんだようです。

北野天満宮の後は、長男が一番行きたがっていた、京都アスニーへ。ここには、平安京の模型があります。その模型を彼は見たかったのです。
ありがたいことに、ここも無料!すごく楽しめるところでした。

夜は、私のマンションの3階に住むご夫婦と、赤垣屋で晩ご飯。ご夫婦がご馳走してくださいました。


普段お酒を飲まない私は、少しビールを飲みました。すると、眠気が襲ってきて、食事中に爆睡。失礼なことをしてしまいました。

酔っぱらいながら、今大好きな彼女に電話を。なにを話したのか、全く覚えていないのです。でも、とにかくすごく楽しい一日でした。

長男も、3階に住むご夫婦も、彼女もみんなとても素敵な人たち。長男は4年ぶりに会ったのですが、色々な経験をして、以前よりぐんと深い人になっていて、親の私が言うのもなんですが、とても素敵な青年に成長していました。

みんな私にとって、分かり合える人達です。心と心が通い合った人たといです。


分かり合えぬ人

でも世の中には、分かり合えない人もいますよね?心が通い合わない人もいますよね?

私にとっては、父の姉である92歳の伯母と、伯母の妹たちが、分かり合えない人たちです。

伯母が、私を受取人にした遺言書作ったことが、とにかく気に入らない伯母の妹たち。ものすごく面倒くさいのです。

この間は、夜の9時40分くらいに、
「遺言書を作ったいきさつを説明して」と伯母の妹から電話がありました。
夜の9時40分にです。

私は統合失調症です。睡眠のリズムが乱れては大変です。
「ちょっと電話を切らせてください」と言って、電話を切りました。

昨日は92歳の伯母から、
「一度、4人で話し合おう。あんたも目上の人に対して失礼なことをしているんやから」
と電話がありました。私は断りました。

失礼なことってなにがでしょう?
話し合うってなにを話し合うのでしょう?伯母の妹たちは、ただ私に謝らせたいだけなにのです。自分たちの正義を振りかざして。

「分かり合えない人って、いるのだなあ」と思いました。そんな人たちと関わって、自分が摩耗するのは虚しすぎます。私は嫌です。

分かり合えない人たちと不毛な時間を過ごすよりも、分かり合える人たちとの時間を私は大切にしていきたいのです。

分かり合えない人がいるのだ。
それが分かっただけでも私は以前より成長した気がします。


「判断」しない

以前に読んだ、草薙龍瞬さんの「反応しない練習」の中にこんな言葉がありました。

「人を苦しめる『判断』には、『自分はエライ』『正しい』『優れている(はずだ)』と肯定しすぎる思いもあります。

仏教ではこうした心理を”慢”と呼びます』

「”慢”とはいわば、『自分の価値にこだわる心』。実は傲慢さやプライド。虚栄心、さらには劣等感や『自信がない』という思いも”慢”に当たります。

人はみな、『自分が考えることは正しい』と心のどこかで思っています。

しかし、その判断が正しいのか、間違っているのかは、いったいどのように『判断』するのでしょうか?」

ブッダはこのように語っています」

「私が言葉を語るのは、相手に利益となる場合である。

真実であり、相手に利益をもたらす言葉であれば、時に相手が好まない言葉であっても、語るべきときに語る。それは相手への憐み(慈悲)ゆえである」

相手への慈悲ゆえに語るべきときには語るって、すごく大切なことではないでしょうか?そしてなかなかできないことではないでしょうか?


自分の正義を押しつけない

今回、4年ぶりにあった長男と、たくさん、本当にたくさんのことを語り合いました。

彼は来春から、僧侶になるための修行の道に入ります。そのことについてもたくさん私に語ってくれました。私は、出来るだけアクティブリスニングをして、彼の言葉を受けとめました。

彼には彼の考えがあり、彼の正義があります。
私には私の考えがあり、やはり私の正義があります。

その正義を人に押しつけてはいけないと思うのです。正しさを押しつけることによって、争いが生じ、時には戦争さえ引き起こしてしまいます。正しさを押し付けられた人の心は疲弊します。

私は自分の正義を人に押しつけたくはないです。そもそも私は完璧な人間ではないし、自分の正義が、完全なものだと言える自信はありません。

伯母の妹たちのように、自分の正義を人に押しつけたくはありません。


分かり合えない人から学ぶこと

誰でも、分かり合えない人がいると思います。そんな人と接したら、虚しさや辛さを感じることがあると思います。

でもそこからでも学ぶことができるのではないでしょうか?

作家のひすいこたろうさんは、辛いことや苦しいことが起こった時は、こう唱えればいいとおっしゃっています。

「なんのチャンスなのだろう?」と。

人って、本当にその気になれば、どんな状況からでも学ぶことができると思います。

そして、ひすいこたろうさんのおっしゃるように、
「なんのチャンスなのだろう?」と捉えれば、少しワクワクします。そこから学べることもあると思います。

結局人生って、物の捉え方、見方ひとつで、同じことが起こっても、その意味付けが変わってくると思います。

慢の心をもたない。
自分の正義を押し付けない。
「なんのチャンスなのだろう?」と考えてみる。

意識していきたいです。

最後まで読んで下さって、ありがとうございました。

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