統合失調症の私が伝えたい5つの事 Vol3

「です・ます」調で書いていたのですが、どうもしっくりこないので、ちょっと変えます。

2  盛岡へ、前橋へ
春先のある日、常夫が東大阪の隆雄宅に来た。そして、江美子に言った。
「盛岡に来て欲しい。仕事のめどが立ったんや。俺には、お前たちが必要なんや。苦労かけるかもしれへんけど、俺についてきてほしい」
「嫌や!盛岡なんて、そんな遠いところに行くの、私は嫌や!」
江美子は泣き出してしまいました。すると、祖父の隆雄が江美子の肩を抱いて諭した。
「江美子、ついて行ってやれ。お前の惚れた男やないか」
しばらく泣きじゃくった後、江美子は言った。

「わかった。ついて行くわ」 
 こうして私たちは、盛岡へと引越しすることになった。私は、隆雄や千代と離れて暮らすことが、淋しかった。東大阪の雑踏というか、ごちゃごちゃした街のざわめきと離れるのも寂しかった。

常夫は、懸命に働いた。そして江美子も懸命にそれを支えた。わたしは5歳になり、孝也は、2歳になった。私は幼稚園に通い、友達もできた。やっと落ち着いた暮らしができたと思えたある日の夜、江美子の大きな声で、私は目を覚ました。

「前橋?前橋やて?やっと盛岡の生活に慣れてきたのに、今度は前橋について来てくれなんて、あんまりやわ!」
泣きながら、江美子は常夫に言った。
「軍手の販売店の店長を任されたんや。俺、頑張るから。お前らのために頑張るから。俺にはお前達が必要なんや。側にいてくれ」
常夫は言った。
 
こうして私たちは、群馬県の前橋に引っ越すことになった。前橋でも幼稚園に通ったが、なかなか馴染めず、友達ができなかった。前橋の方言が、きつく感じて、私は委縮してしまっていたのだ。
そんな私は、いじめっ子たちの標的になった。被っていた制服のベレー帽をドブに投げられたり、給食の汁物の中に、まるめた粘土を入れられたりした。粘土を入れられたことを先生は気づいてくれず、
「残さずに食べなさい!」
と、私を叱った。私は何も言えずに、ただ泣き続けた。

前橋では、平屋の借家で暮らした。常夫は毎晩遅くまで働いていたが、ちゃんと家に帰ってきた。友達はできなかったが、家族四人で暮らす生活は、それなりに幸せな日々だった。

春になり、私は小学校に入学した。その頃、常夫は、出張や、長期の仕事で、家を空けることが多くなった。私は、やはり言葉をきつく感じて、なかなか友達ができなかった。いじめっ子たちからのいじめも続いていた。でも、隣の席の雪恵という子が、
「葉月ちゃん、一緒に帰ろう」
と声をかけてくれた。友達ができて、私は嬉しかった。小学校での勉強はとても楽しかった。特に国語と、図工が好きだった。作文や、絵画や、工作で、私はよく先生に褒められた。そんな私を江美子も褒めてくれた。
なんとか友達もできて小学校にも慣れて迎えた夏休みのある日、常夫は私を抱き上げて、頬に顔をすり寄せた。
「髯がチクチクするよ。やめて」
私は逃げようとした。常夫はさらにきつく私を抱きしめて言った。

「葉月、岡山や。みんなで、岡山で暮らすぞ!」
「岡山?」
それがどこなのかもわからなかった。でも、いじめっ子たちと離れられるのが、私は嬉しかった。雪恵と離れるのは少し淋しかったが、なんだか「岡山」という響きに希望がある気がした。前橋になかなか馴染めなかった江美子も喜んだ。

こうして私たちは岡山に引っ越すことになった。岡山に引っ越す前に、私は一つの決心をした。
(今度はいじめられないようにしよう!道化を演じよう!)
道化という言葉を、幼かった私は知らなかったが、振り返るとそんな決心をしたのだ。まだ、7歳だった私は、そう固く決心したのだった。

4 岡山での暮らし

「すごい!お姉ちゃん、階段があるで!」
孝也は歓声を上げて、階段を駆け上った。
「ほんまや!すごい!」
私も、孝也に続いて駆け上った。そんな私たちの姿を常夫は、目を細めて見ていた。常夫は、岡山に小さな家を買ったのだ。ベルホームという新興住宅地の建売住宅だった。
「幸せやなあ・・・」
江美子はしみじみと言った。常夫は、江美子の肩を抱き寄せた。

前橋ではいじめにあった私だったが、岡山では、すぐにたくさん友達ができた。
(絶対にいじめにあわないようにしよう!)
と決心して、自ら道化を演じたことも功をなしたが、岡山の子供たちの底抜けの明るさと、無邪気さによるところも大きかった。
 
ベルホームにはたくさんの子供が住んでいた。私は女の子の友達と、ゴムとびや、リカちゃん人形でも遊んだりしたが、男の子たちとキャッチボールをしたり、ザリガニ釣りをしたりするのが、好きだった。私は毎日、日が暮れるまで外で遊んだ。孝也は、女の子の友達と、ままごと遊びばかりしていた。

ベルホームの近くにある、芥子山にも友達とよく登った。毎日、日が暮れるまで遊んだ。
今は、家が立ち並んでいるベルホームだが、その頃は、広い田畑がたくさんあった。私はそこで、その頃はやっていた、ゲイラカイトという凧を上げるのに夢中になった。ゲイラカイトを高く上げると、近くに鳶が寄ってくる。それが、とても楽しかった。私の幸せな子供時代の記憶の一つである。
 
常夫は精力的に仕事をこなした。軍手の製造、販売だけでなく、作業服や安全靴などを小売りする店舗を次々にオープンして、次の年には3階建てのビルを買って、1、2階を事務所にした。3階には東大阪から呼び寄せた、祖父母の隆雄と千代を住まわせた。隆雄達に日銭が入るようにと、ビルの駐車場の一角に作業服などを売る店を建て、隆雄達に管理を任せた。

常夫は多忙な仕事の合間を縫って、私たちを食事に連れて行ってくれたり、小学校の運動会に駆け付けて来てくれたりした。

私が小学校3年生、孝也が年長の時に、隆雄と千代、江美子と私と孝也は、石垣島に住む、江美子の兄の成人のもとを訪れた。成人は若い頃、ヨーロッパをアルバイトをしながら旅して周り、貯めたお金で、デンマークで体操学校に通った。そして、日本に帰り、東大阪に戻ったのだが、
(こんなに、ごみごみしたところには住めない!)
と、単身、石垣島に渡ったのだった。成人は、石垣島に渡る時に、常夫から200万円を借りていた。

「お金を貸してほしい」
と、成人が打診してきたことを江美子が、常夫に告げると、常夫は、
「子供たちが、いつ世話になるかもわからん。貸してやれ」
と二つ返事で答えた。そのお金を元手にして、成人は農地を買い、また、タクシーの運転手をしながら、お金を貯めて、少しずつ農地を買い足して、農業をしていた。

常夫は仕事で来られなかったが、成人が色々と案内してくれて、楽しかった。まるで絵の具を溶かしたようなエメラルドグリーンの海。一粒一粒が星の形をした砂。グラスボートにも乗ったし、フェーリーで西表島にも行った。
西表島では、私は川に落ちてしまい、成人が飛び込んで助けてくれたというハプニングもあった。私たちに、成人は、栽培しているサトウキビや、紫芋食べさせてくれた。素朴で優しい味がした。私と孝也は、海岸で、貝殻をたくさん拾って遊んだ。その貝殻を岡山まで、持って帰ることにした。幸せだった。この幸せな日々が、いつまでも続くと私も、孝也も、江美子も思っていた。
 

最後まで読んで下さり、ありがとうございました。続きも明日、ぜひ読んで下さい。

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