近いけれど遠い人

生母に対する複雑な気持ち

私には二人の母がいます。私が10歳の時に父と離婚した生母と、私が14歳の時に父と再婚した継母です。継母の事については、前のブログで書きました。巡り合わせ|暮島葉月 (note.com) 読んで下さったら嬉しいです。

継母は昨年に癌で亡くなりました。父は平成16年に、66歳で、やはり癌で亡くなりました。だから、生母だけが私にとっては存命の親です。生母は石垣島で暮らしています。

石垣島。京都からは遠いです。
「ちょっと会いに行ってみよう」
という距離ではありません。でも、その物理的な距離だけではなく、生母と私を隔てるものがあります。それは生母に対する私の複雑な気持ちです。

私が10歳の時に、父と生母は離婚しました。父も生母もそれぞれ不倫していました。父が出張中に生母は、浮気相手の男性を家にあげて、夜遅くまで二人で飲んでいました。そこに、出張の日程を変更した父が帰ってきたのです。
「開けろー!ドアを開けろ!」
と大声で叫ぶ父の声で私は目を覚ましました。私は当時10歳。全てが理解できたわけではありませんでしたが、よくないことが起こっていることはわかりました。一緒に寝ていた3歳下の弟を抱きしめながら、
「大丈夫。大丈夫だから」と繰り返し言いました。それは自分自身に言った言葉でもありました。大丈夫、大丈夫だから…

結局生母はドアを開けず、父は棒か何かで、ガラスを割って鍵を開け、家に入ってきました。
「なんで山下(仮名)がここにおるねん」
そう、母の不倫相手は、父の会社の従業員だったのです。

それから、いく度も父と生母は、生母の両親、私の祖父母を交えて話し合いをしました。父は生母からの謝罪の言葉を待っていたのだと思います。やり直すことも考えていたのだと思います。

でも、生母が発した言葉は謝罪ではなく、
「山下さんと生きます」
という言葉でした。私と弟を引き取ろうと頑張ってはくれたみたいです。でも父は、「山下と生きる」と言う生母に私と弟を渡すことを拒みました。

最後の話し合いの後で、生母は泣きながら私と弟を抱きしめました。そして、
「お母さん、葉月ちゃんと孝ちゃんと一緒に暮らせなくなってん」
と言いました。その言葉を聞いて、弟は握りこぶしを作り、ポロリと大粒の涙をこぼしました。私も泣きました。

私と弟との暮らしよりも男と暮らす人生を選んだ生母。そのことは私の心に大きな傷を負わせました。だから今も、生母に対しては複雑な気持ちを抱えています。


生母との再会・交流

大学生になった私は、石垣島で暮らす生母の伯父のもとを友達と一緒に訪れて、伯父の家に何泊か泊めてもらいました。その時に、生母は私に会いに来てくれました。当時奈良で暮らしていた生母。パチンコ屋で働いていました。

「ごめんやで」
と泣きながら私を抱きしめる10年ぶりに会った生母。私も涙が溢れました。

その日から、私は生母と交流するようになりました。父と継母には内緒でです。

私が嫁ぐときには、たくさんお祝いのお金をくれました。でも、父と継母は結婚式に生母が列席することを許してはくれませんでした。私は二人に内緒で、結婚式の写真を生母に送りました。

「離婚した親を結婚式に呼ぶか?」
ということが話題になったことがあります。それはすごく難しい問題だと思います。私は生母にも晴れ姿を見てもらいたかったです。



傷ついた私を受け入れてくれた生母


結婚して、息子たちが生まれて、児童英会話教室もしていた私。元夫が僧侶だったので、寺の仕事もあって、忙しい日々を送っていました。いつしか心の中から生母の事は消えていました。

でも34歳の時に、私は過労とストレスから統合失調症を発症してしまいました。何をしていても不安が込み上げてきました。その不安な気持ちの中で、私は無性に生母の声が聞きたくなりました。誰かに抱きしめて欲しかったのです。
「大丈夫。大丈夫だから」
と言って欲しかったのです。

傷つき壊れてしまった私を、生母は受け入れてくれました。
「夜中でも、何時にでも電話してきてくれていいから」
と言ってくれました。その言葉のおかげで、私は死なずにすみました。

2回目の退院の後、私は石垣島で暮らす生母のもとを訪ねました。生母は石垣島で暮らしていました。

生母の兄、私の伯父の紹介で、2人で牧場に住み込み、子牛にミルクをあげたりして働きました。働くといっても、当時の私の病状は重くて、タバコばかりを吸っていました。

そして、元夫が生母に預けたお金で、牧場の仕事の後で生母と二人でパチンコ店に通うようになりました。

生母は若い時からパチンコが大好きでした。生母に連れて行かれたパチンコ店にいる間は、私は現実を忘れることができました。逃避です。現実と直面することから逃げていました。

その後石垣島から戻った私は3回精神科に入退院し、離婚し、今は京都で一人で暮らしています。

京都に帰って来てからも色々なことがあったけれど、今はオープン就労で働き、素晴らしい仲間たちに出逢うことができ、幸せに暮らしています。

私を産んでくれて、途中まで育ててくれて、そしてあのボロボロだった私を受け入れてくれた生母には感謝しています。


近いけれど遠い人

私は54歳、そして生母は75歳になりました。2人ともいつの間にか齢を重ねてしまいました。

今も生母は石垣島で暮らしています。認知症の症状が出て、施設で暮らしていました。「いました」と過去形なのは、その施設を出なければいけなくなったからです。詳しいことはわからないのですが、いろいろと問題を起こして、施設に居られなくなったようなのです。

伯父から長いラインをもらって、その事を知りました。
「あいつが生きているうちに、会いに来てやってくれ」
と、伯父は書いてくれました。私の心はざわつきました。でも、会いたいとは思わないのです。思えないのです。

老いた生母を見るのが怖いのです。そして子供の時に私と弟が受けた傷を忘れることができないのです。父や私と弟の人生、そして祖父母の人生を変えてしまったことが、まだ赦せていないのかもしれません。

病気になってからもたくさんお世話になった生母。その事には、心から感謝しています。そして、私と弟を産んでくれた事にも…

生母は私にとってはたった一人の存命の親です。とても近い人です。でも、私にとっては、遠い人でもあります。近いけれど遠い人です。

私が生母に会うことは、たぶんないと思います。そんな私は親不孝なのでしょうか?

近いけれど遠い人である生母。波乱万丈に激しく生きて、今は寂しい老後を生きている生母。生母に会わないことを私はいつか後悔するのでしょうか?

心はまだざわついていますが、私はが私がやるべきことをやっていき、しっかりと生きていきます。それが私の生きる道だと思うから。

最後まで読んで下さって、ありがとうございました。


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