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愛し愛されたいという欲望(統合失調症の私のNPO法人設立奮闘記Vol100)
「燃えるだけ燃えて生きよ」 A・マクギニス著 稲盛和夫監訳
彼女さんとの時間
ついにこの奮闘記のブログもVol100になりました。仲間と一緒に、NPO設立に向けて、まさに奮闘しています。来年の春くらいには設立できることを目標に頑張っています。理事のみんなは、本当に才能豊かで、素晴らしい人ばかり!出逢えてすごく幸せです。
さてさて、先週末は、私が今大好きな彼女さんと、彼女さんの息子さんが泊まりにきました。土曜日は、東福寺の紅葉の夜間拝観に3人で行ってきました。
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私は何度か行ったことがあるのですが、彼女さんと息子さんは夜間拝観に行くのは初めて。すごく感激してくれました。そんな二人を見て、私もすごく幸せな気持ちになりました。
こんな幸せな気持ちになれる日が来るなんて思えない、辛い時期がありました。辛かったな、あの頃。
愛する人と、喜びが分かち合える時を過ごせるのって、本当に幸せですね。その幸せを噛みしめました。
夜間拝観の後は、大国ラーメンでラーメンを食べました。美味しかった!しかもすごく安い!何もかもが最高でした。
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帰りに桜湯という銭湯に行って、温まってきました。この銭湯、昭和レトロですごく素敵なのです。
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家に帰ってからは、息子さんは私のパソコンでゲームを、私と彼女さんは少し甘い時間を過ごしました。どんな風に甘かったのかは、ご想像にお任せします(笑)。
とにかく最高に楽しくて幸せな週末でした!
愛し愛されたいという欲望
私は今、彼女さんを愛しているし、彼女さんに愛されています。愛ってカタチには見えないけれど、私たち二人が愛し愛されているということは、たしかなことです。そのたしかなことが、私の心に温もりを与えてくれています。
「燃えるだけ燃えて生きよ」という本の中にこんな言葉がありました。
「孤立した魂は無気力なものである。愛し愛されたいという欲望は、呼吸をするのと同じようにあたりまえのことなのだ」
そうなのですよね。人って「愛」を渇望する生き物なのですよね。幼い時は、親から愛されたいと強く願い、成長してからは愛する人に愛されたいと強く願います。人と関わることのできない、「孤独=孤毒」の状態では生きてはいけません。それくらい、人との関わりは大切だし、愛って大切なものです。
私は若い頃から、男性にも女性にも惹かれるバイセクシャルでした。そんな自分のセクシャリティについて悩んだこともありました。今ほどLGBTQについての認識が広まっていなくて、「私はおかしいのかな?」とずいぶん悩みました。
今は、34歳のシングルマザーの彼女さんのことが大好きで、彼女のことを深く愛しています。そんな私の思いに最初は彼女さんはとまどっていたけれど、徐々に心を開いてくれて、今は私のことを愛してくれています。
「私たちつきあっているのかな?」と、彼女さんに聞いたら、
「たぶん。違うの?」と。嬉しかったです。
愛し愛されたいという欲望を持たない人っているのでしょうか?それは、ずいぶん味気ない人生だと思います。
私は、これからも彼女さんを愛していきたいし、愛されていきたい。すごくシンプルだけど、とても強い欲望です。
「燃えるだけ燃えて生きよ」の中にはこうも書かれています。
「われわれはセックスをしなくても生きられるし、家族がいなくてもなんとかやっていける。しかし愛なくして生きることはできないのである」
愛…本当に深いです。これからも愛について考えて生きていきたいです。
人は自由なのだ
本の中で、強制収容所の生活を経験して、生き延びたビクトル・フランクル博士の言葉が紹介されていました。
「人は自由なのだ。与えられたどんな環境の中でも、どんな姿勢をとるかは本人の選択であり、自分の道を選ぶのは自分であるということを私に教えてくれたのである」
そう、人は自由なのです。どんな道をも選択することのできる自由を私たちは持っているのです。そして誰かの持つ自由を侵してはいけないのです。
「燃えるだけ燃えて生きよ」はこんな言葉で結ばれています。
「悪と善、自殺と生、憎悪と愛情、その場限りの満足と長期的視野に立った目標。我々にはこれを選ぶ自由がある。われわれが望むならこの世を皮肉な目で悲観的に見る立場を選ぶこともできる。あるいは、最上のものはこれから先にあると頑固に信じて、希望を持って生きる前向きな立場にも立てる。
この『姿勢の選択』はまさにわれわれの『心』一つにかかっているのである」
自由というのは責任も伴います。私たちは、自分の人生にとって最善であり最上な道を選択していく自由がある代わりに、その選択に責任を持つ必要もあるのですね。
どんな時も主体的に生きていくことが問われているのだと思います。
ただ信じるだけ
私は、今、彼女さんを愛しています。とても深く愛しています。お金も名誉も地位も何もない私ですが、彼女さんへの愛は誰にも負けない自信があります。彼女さんへの愛、それだけはたしかなものです。
でもこの先、私たちの関係がどうなっていくのかは、私たちにはわかりません。彼女さんが、他の誰かを愛するかもしれないし、私が他の誰かを愛するかもしれません。
私たちだけでなく、未来のことなんて、誰にも分らないのです。それはとても不確実なものだからです。
そんな不確実な未来を生きている私ができること、それはただ彼女さんを信じることだと思います。二人の未来を信じることだと思います。そして、見返りを求めずに、ただひたすらに一途に彼女さんを愛することだと思います。
見返りを求めずに…これが私にはかなり難しいです。彼女さんに触れたいと思ってしまうし、口づけしたいと思ってしまうし、もっともっと彼女さんのことを知りたいと思ってしまうのです。
彼女さんは、私に「今」をくれました。そして「未来」をくれました。「これから」をくれました。
私は彼女に何をあげられるのだろう?
そのことを自分に問い続けています。
愛したいという欲望。
愛されたいという欲望。
今、私はその欲望が燃える中にいます。これからも精いっぱい彼女さんを愛していきたいです。そしてこの愛で、自分を成長させてけたらいいです。
不確実な未来。
不確実な「生」を生きる私。
その私が今できることは、信じること。ただ信じること…。
最後まで読んで下さって、ありがとうございました。