魂を磨いていく

「生き方」 稲盛和夫氏著

楽しかった週末

先週の週末も充実した時間を過ごしました。

土曜日は、中国人の友達と、アイリッシュパブのfieldに行きました。アイルランド在住で、日本に一時帰国されている方が、「セッションが聴けるよ」と教えて下さったので、行きました。その方とは、私と妙さんが主宰している、Crossroadsの会で知り合いました。

アイリッシュ音楽のセッションは、すごく良くて、なんか心が浮き浮きと弾みました。今度の金曜日は、その方も演奏されるライブに行きます。楽しみです。

日曜日は、西院のLAUNDRY CAFEであった英語のイベントに行ってきました。最近、英語の勉強をさぼり気味の私。このLAUNDRY CAFEのイベントに参加すると、「もっと英語の勉強をしなければなあ」と、英語の勉強に対するモチベーションが上がります。

LAUNDRY CAFEの英語のイベントでは、たくさん素敵な方達と知り合いました。カナダ人の男性もその一人です。年代が近いこともあり、ご飯を食べに行ったりして、仲良くさせてもらっています。Crossroadsのイベントにも、何度も参加してくださいました。6月にはカナダに帰国されます。すごく淋しくなります。こんな素敵な出逢いを与えてくださる、LAUNDRY CAFEのオーナーの理恵さんには、本当に感謝です。

そして、そのような場に足を運んだり、Crossroadsのような活動を続けている自分自身も褒めたいと思います。一歩踏み出さなければ得られない出逢いをたくさん得てきました。そんな風に一歩踏み出した自分を褒めたいのです。


これまで、樺沢紫苑先生の「アウトプット大全」で学んできましたが、今日から、稲盛和夫氏著の「生き方」で学んでいきたいと思います。

人生の目的はどこにあるのか?

「私たち人間が生きている意味、人生の目的はどこにあるのでしょうか?もっとも根源的といえるその問いかけに、私はやはり真正面から、それは心を高めること、魂を磨くことにあると答えたいのです」

「死を迎えるときには、現世でつくり上げた地位も名誉も財産もすべて脱ぎ捨て、魂だけを携えて新しい旅立ちをしなくてはならないのです。

ですから、『この世へ何をしに来たのか』と問われたら、私は迷いもてらいもなく、生まれたときより少しでもましな人間になる、すなわちわずかなりとも美しく崇高な魂を持って死んでいくためだと答えます」

「生きていくことは苦しいことの方が多いものです。ときに、なぜ自分だけがこんなに苦労をするのかと神や仏を恨みたくなることもあるでしょう。しかしそのような苦しい世だからこそ、その苦は魂を磨くための試練だと考える必要があるのです。労苦とは、おのれの人間性を鍛えるための絶好のチャンスなのです」

「試練を『機会』としてとらえることができる人。そういう人こそ、限られた人生を本当に自分のものとして生きていけるのです。

現世とは心を高めるために与えられた機関であり、魂を磨くための修養の場である。人間の生きる意味や人生の価値は心を高め、魂を錬磨することにある。まずは、そういうことが言えるのではないでしょうか」


ひたすら生きていた私

「人生の意味は、目的は、魂を磨くこと」。なるほどなあと思いました。いく携えていくことはできない。心を高めて、魂を錬磨できるように生きていきいくことはできない。心を高めて、魂を錬磨できるように生きていきたいです。

私も53歳になりました。統合失調症を発症して入退院を繰り返したり、離婚したり、息子たちに会えない淋しさから自殺未遂をしたりと、本当に色々なことがありました。ここで、少し結婚していた頃の暮らしを振り返ってみたいと思います。

私は、大学4回生の時に、僧侶である元夫と結婚して、京都から、中国地方のお寺へと嫁ぎました。すぐに長男を授かり、その2年後には次男を授かりました。元夫も優しくて、息子たちも健やかに育ってくれて、とても幸せでした。

ただ、同居していた姑との仲にはずいぶんと悩みました。姑は元夫を私にとられたような気がしていたのかもしれません。常に姑の機嫌をうかがうような日々でした。そんな日々の中、私は自分の居場所が欲しくて、自宅で、児童英会話教室を開きました。

生徒も順調に増え、仕事にはとてもやりがいを感じていました。教えることは、本当に楽しかったです。息子たちも元気に育ってくれて、夫も優しくて、家事にも協力的で、私は、とても幸せでした。

児童英会話教室の仕事、お寺の仕事、息子たちの世話、家事、地域の用事と毎日こなさなければいけないことがいっぱいでした。教室の授業をするためには、準備が必要です。夜に息子たちに絵本を読んであげて、息子たちと一緒に寝てから、夜中の2時ころに起きて、授業の準備をするといった日々でした。完全に睡眠不足のまま、私は走り続けていました。振り返ることなく、走り続けていました。

ひたすら生きていた。その頃の私を今、そう思います。ただひたすらに生きていました。前も見ずに、後ろも振り返らずに、その瞬間瞬間をただひたすらに生きていました。

「なぜ、あんな無理な生き方をしていたのだろう?」と今は思います。でもあの頃の私は、ぞれが無理なことだとは気づきもせずに、毎日、アクセルを踏みっぱなしで、走り続けていました。

31歳の時に、姑が亡くなって、寺の仕事の負担が増えました。その時点で、児童英会話教室の仕事をやめていれば、なにかが違っていたかもしれません。睡眠時間を削り、息子たちと遊ぶ時間も削って、私は走り続けました。そんな無理な暮らしと、ストレスに加えて、実家で起こった問題に悩み、34歳の時に、私は統合失調症を発症してしまいました。

病気になって、私はたくさんの人たちに心配や迷惑をかけました。特に、まだ幼かった息子たちには、本当に可愛そうなことをしたと悔やんでいます。

振り返ることなく、走り続けていた私。後悔することもいっぱいです。でも、あのひたすらに生きていた日々は、私にとってはとても大切な日々でもあります。私が、一番輝いていたというか…生きて、生きて、生きていた日々なのです。

稲盛さんのおっしゃるように「魂を磨いていく」ために、時々振り返りながら、ブレーキも踏みながら、残りの人生をしっかりと生きていきたいです

最後まで読んで下さって、ありがとうございました。

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