![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/34310866/rectangle_large_type_2_dd6ba5451003c6cff1874c3988ac9a51.jpg?width=1200)
報道に限らず、今のコロナ禍において、メディアに希望はあるのか。
メディアの持つ影響力
いわゆるメディアといえば、日本ではまだまだテレビのことになるだろう。テレビは、やはり圧倒的に世の中に影響力がある。世に知れたユーチューバーがYouTubeの中で何か言ったことも、その言葉をヤフーニュースが引用して伝え、テレビのワイドショーという名の、時間稼ぎの番組で取り上げられた方が、日本中の津々浦々まで伝わるのは、火を見るより明らかである。
そして、この日本では、まるで人々は家畜のように、「自分の頭で考えること」を止めてしまったかのように、テレビの「コメンテーター」たる人達の言うことを鵜呑みにする傾向がある。有名なコメンテーター、有名なニュースキャスターたちなど、なんぼのものかと私自身は思っているのだがね。
ずいぶん昔、確か上岡龍太郎氏だったと思うが、面白いことを言ったのを覚えている。それは、「国会議員なんて、糞である」というものだ。通常であれば、国会議員なるものは、国民に選挙で選ばれた「先生」であるのだから、「糞」であるというより、むしろ「神様」に近い存在なのではないかと思うのだが、でも、彼はそれとは真逆のことを言ったのである。
その根拠は、「横山ノック」のような輩でさえ、議員になれるのであるから、国会議員には知性も教養も、何も要らないと言うのである(笑)。これは凄い論理である。かつてのコント仲間である横山ノック氏を例に挙げ、完璧なまでに説明したこの論理には、残念ながら(?)反論の余地が全くない。誰もが「なるほど!」と納得してしまう論理である。
また、この論理を裏付けるように立証したのが、杉村太蔵元衆議院議員である。彼などは、議員になる前は、ただのサラリーマンだった。それが、立候補すると決めてから、あれよあれよという間に「先生」の仲間入りをしたのである。
杉村太蔵は、更に、国民が見たくない事実を畳みかけてくれる。「表に出なければ、それは事実じゃないんです!」とまでいうのだ。これは、かつての政治家だった人としての、名言(迷言ではない)である。ここまで言う元政治家は、かつて存在しなかった。あのハマコーでさえ、ここまでのことは言わなかったと記憶している。
また、これは政治家の話ではないが、かつて、私の敬愛する村上龍氏は、「作家なんて、最低の職業だ」と言っていた。これは、要するに、普通に会社で働いたりすることができないような社会落伍者が、文字を書いて生活をしているのが作家なのである、ということだ。これにも、全く反論の余地がない。そのときもやはり、「なるほど」と思ってしまったことを覚えている。そして、「そうか、俺も作家になりたいものだ」と思ってしまったことも、あえて付け加えておこう(笑)。
その後、この作家という職業の持つ意味は、芥川賞受賞の報せを受けたとき「そろそろ風俗に行こうかなと思っていたところだった」という発言で、世の中の失笑をかっさらっていった『苦役列車』の西村賢太氏が、その意味を裏付けというか、上書きしてしまった。
ということで、世の中で、それなりに認められている人たちでさえ、実はそんなものなのかな、というレベルでの『人格者』であったりするものだ。私は、ただそういうものだと思うだけで、それ自体を否定するわけではない。私は横山ノック氏のことも、杉村太蔵氏のことも、村上龍氏のことも、西村賢太氏のことも、好きである。誰かを好きであるというのと、人に対して、人格者たれ!というのとは、そもそも違う。
そして、人々は、テレビに出ている人たちを、勝手に「人格者」であると思いこんでしまう傾向にあるが、「スッキリ!!」のMCである極楽とんぼの加藤浩次氏なども、すでに引退したAKB48の渡辺麻友を、めちゃイケにおいて、ぶん回したほどの「人格者」であり、その相方の山本に至っては、あえて説明する必要がないないほど世間を騒がせた「人格者」であった。「報道ステーション」のニュースキャスターでさえ、新型コロナになってもその事実を隠匿しようとしたという事実があったほどだ。テレビ朝日の報道のキャスターですら、このざまである。
というように、既成概念というものは恐ろしいもので、一度思い込んだら、「そういうものだ」と脳は思い込んでしまうものだ。それを回避するのは、知性しかないと、私は思っている。また、近年、特に新型コロナの流行に伴い、いじめや村八分などといったものが、地方都市ではそこそこ盛んで、それと反対に、都市部においては自粛警察以外にそのようなものは存在しない、というような傾向があったが、それも、上記テレビにおける人格者と同じく、この場合、自分自身が「人格者」となって、しかるべき者を成敗してやろうという思考があったのであろう。これもまた、知性があれば、回避できたはずのことである。
つまり、日本人に今足りないものは、「知性」であるという結論になってしまった。いやぁ、困った。正直言って、こんなことを書く気は毛頭なかったのであるが、話の流れでこうなってしまった。実に残念な結果である。しかしこれも、自然に導き出された結果であるのなら、それはまたそれで、必然のことであろう。諸行無常の響きあり、というものだ。
でも、人は絶望だけでは生きていけない。どんなに知性がなくとも、せめて希望だけは持っていたいものだ。ということで、最後にMr.Children の『GIFT』を捧げよう。私の大好きな曲だ。この事自体に、特に意味はない。ただ、そこにはわずかばかりの『希望』がある。