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物理的に今マスクをしないという行為は、決断か英断か?

コロナとマスクと熱射病

さて、今は2020年8月の終わりだ。世の中というか、私の住んでいる東京では、まだ外でマスクをしている人が7割から8割はいる。飲食店の中にいても、マスクをしながらお喋りに興じているおばさま方などを含めても、5割くらいはマスクをし続けている。これは、私の主観だ。あくまでも、主観である。これは、ちゃんと断っておく。

それで、新型コロナに関しては、「集団免疫」が効果があるらしいということは、もはやいろいろなところで言われて久しいが、そういうことを主張している人たちは、おそらくは既にマスクを外しているのだろう。彼らはその主張をもってして、堂々とマスクを外しているのだ。でも、飲食店側は、そうもいかない。厨房の中はもちろん、ホールにおいてもマスクは外せないし、業界的にも「義務化」されてしまっている。これは、一体いつまで続くのだろう?

正直に言うと、私は春の時期、毎年花粉症に悩まされているが、今年はほとんど悩むことがなかった。インドネシアの方の漢方的なお茶=ジャムーティーを飲むことで、症状があまり出なかったこともあるが、マスクをほとんどしていたことも、それを後押ししてくれたのだと思う。実際、テレビなどでの報道も、コロナ一色で、花粉症など、話題にものぼっていなかった。そんなものだ。

ということは……ということである。おわかりいただけたであろうか?

ここに、マスクを合法的に(誰もが認める形で、という意味)外せる手法が隠されているのだ。つまり、今は皆、新型コロナの感染を防ぐために(実際には感染を広げないためであるが)マスクをしているのだが、マスクをしていることにより、別の大きな病気などにかかる可能性が増せば、合法的にマスクを外せることになるのである。

まあ、当たり前のことだが、これは決して良いことではない(笑)。ただ、実用的な方法だということだ。

実際に、この暑さの中マスクをしていることで熱射病になるリスクは高まり、そうなってしまった人もいると聞く。でも、世の中的にマスクはいまだに欠かせないものになっている。熱射病くらいでは、マスクを外すに値しないのだ。では、どんなことが起きれば、マスクをしていることが危険になるのだろうかと、考えてみた。

繊維を好んで繁殖するウイルス

こんなもの、正直言って、言い出しっぺの私ですら、物理的にいるわけがないと思うのだが、仮に、繊維を好み、「そこで増殖して繁殖活動を営むウイルス」がいたら、マスクをし続けることが、それ自体、危険をはらんでしまうことになる。マスクをすることが、ウイルスを増殖させることにつながり、飲食店での食中毒症状などを引き起こしてしまうとしたら?こういう、一見無茶苦茶な仮定を設定してみたが、あながち不可能なことでもないように思う。人の息は、そこに湿気を含むし、会話をすれば、マスクの中に唾液は飛ぶ。そうすると、そこにウイルスが生存可能な領域が形成されるのだ。当初は不可能と思ったが、書いていて、これは、ありえないというほどでもないな、と思ってしまった。

そもそも、新型コロナも、そんなものありえないはずのウイルスだった。今となっては地に落ちたWHOやら中国やらの隠ぺい工作なども報道されているが、すべて、「そんなこと、あるはずがない」というものばかりだ。

世の中は、そんなことばかりだ。

別に、世の中に絶望してこんなことを書いているのではない。絶望というより、未来には希望しかないと思っているのだが、「あるはずがない」ものや、「あるはずがない」ことが起きてしまうのが、現実というものだ。

世の中は、そんな不思議さで満ち溢れている。

コミュニケーション・エラーによる弊害

次に、最も可能性があることといえば、これだ。マスクをしていることにより、そこにコミュニケーションの溝ができてしまい、喧嘩になり、事故という形で殺人が起きてしまったりすることがある。最近は、こうしたニュースが週に1回くらい報道される。実際に、千葉県のコンビニでこのような事件が起きたことが報道されてショックを受けた。

そもそも、人は口を使って会話をする。だから、口の動きという視覚情報は、意外と大事だったりするのだ。口から言語を発することができず、手話に頼る人たちも、結局最終的に口の動きを見て、会話を読み取ったりしていると聞く。だから、そういった人たちは、手話にも苦労されているらしい。つまり、人の声という「音」による情報だけでは、正直言って、それだけでは情報不足になることが多いということだ。

ちょっと考えてほしい。ちゃんと目と目を見て向き合って会話をしていても、話が食い違うことなんて、男女間では、ざらにある。むしろ、ないことの方が多い。同じ日本語を話し、目と目を見て話しているのに、会話が噛み合わないのである。家族間においても、こんなことは当たり前にある。それが他人同士であった場合、「相手を理解しよう」という意思がそこになかったら、当然のようにコミュニケーション・エラーが起こってしまうものだ。

これがエスカレートして、一種の報道事故みたいなことが起きてしまったとき、メディアは一斉に反旗を翻して、世論を変えていってしまうに違いない。これが、今現実に起こりうる、最も可能性がある、マスクを外す決断に至る方法である。あとは、この類似行為を、政治の世界のルールにのっとって「意図的」に行い、半ば強引にメディアを政治家が動かしてしまうということである。やはり、これが最も可能性が高い。

あとは、このスケープゴートになるべき「被害者」を造り出すだけだ。その犠牲は、大きければ大きいほど良い。大企業であればあるほど良い。実際には「良く」はないのだが、マスクを外すためなら手段を択ばないという政治の論理が働けば、そんなもの、どうにでもなる。

でも実際に起こる可能性としては、客とトラブルがあった店舗の人が、客に殴られたりして重態に陥り、その店員が、とある政治家のご子息だったりして、それが企業責任となり、会社の代表も辞職して、その殴った人も、管理が行き届かなかったとされる店側も、見せしめとして各種メディアでも公開処刑される、というものだ。あとは、死者に鞭打つようなコメントを喜んでする、SNSに棲みつくクズどもがダメ押しをして、それが今度は海外のニュースにも取り上げられ、「Don't wear a mask」運動なるものが盛んになり、略して「D.M.」とか呼ばれて、更に、SNSで誹謗中傷DMが活性化し、それに関する訴訟で弁護士と行政書士のDMが、パンク状態になる。

私がマスクを外すとき

これなら、可能性はある。でも、ある意味、もう選択はこの二つくらいしかない。それが現実だ。世の中には「マスク警察」みたいなものもいるらしいので、私自身は正直なところ、マスクをし続けることには否定的なのだが、とばっちりみたいなものには遭いたくないので、マスクをし続けている。電車に乗るときには、マスクは必需品。不要不急の外出は避けろと言われても、都内の電車はそれなりに込み合っている。ソーシャルディスタンスといっても、それ自体には現実性がない。これが現実というものだ。

そういえば今思い出したが、私の知り合いの霊能者は、地球(地底)からのメッセージを受け取り、今年2020年の9月26日に、太平洋プレートとフィリピンプレートが大きく揺さぶられると言っている。

現実にその予言的なものが、どこまで現実化されるのかわからない。わからないが、そうした大災害が起きたら、それこそコロナなど、どうでもよくなってしまう。避難所は人で溢れ、そこではソーシャルディスタンスなどという言葉など、全く意味をなさなくなってしまう。それこそ、富士山が噴火したりといったことが連動して起こったりしたら、マスクは、噴煙・粉塵を吸い込まないようにするためのものとなり、コロナのことなど、誰も気にしなくなってしまうであろう。ある意味、これが最も現実的なものなのかもしれない。最悪のシナリオではあるが。でも、最悪故に、その可能性は、否定できないのである。

そのとき、マスクというものの価値観そのものが、大きく変化するであろうし、まさに、日本人の民度が試されることとなるであろう。

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