ジョゼと虎と魚たち~私的映画評
時間経つと、また観たくなる。
そんな不思議な魅力ある作品だった。
画面に込められた情報量が多いうえに、なかなか気付きにくい繊細な感情表現や奥行きのある設定に、脳の情報処理が追い付かない感じなのだろう。
主人公の台詞やモノローグで分かりやすく語るテレビアニメとは異なり、あえて説明したりはしない。
精緻に構築された演出、効果、そしてキャラクターの仕草、表情、声の演技等によって、登場人物の心理的な流れを浮き彫りにするという非常に高度な技を駆使しているのだ。
人の心は、目に見えない。
当たり前のことだが、ではどうしたら他人の心を分かったと自分たちは思えてしまうのだろう。
自分に向けられる他者の悪意を、ジョゼは「虎」と表現した。
また、身体的制約のある今の生活から自由になりたいという、夢や憧れを具象化したものが「魚たち」なのであろう。
アレゴリーであり寓話的な表現だが、劇中ではジョゼが描いた重要なモチーフとなっている。ジョゼ自身の姿も、人魚姫に準えて絵として表現されている。
この「人魚姫」というファンタジーな存在が、現実世界では下肢障害者として不自由な生活を強いられるという疎外感と理不尽さ。
それは確かにジョゼに言われるまでもなく「健常者には分からん」世界だ。
少し思い返してしてみるといい。
酷い腰痛でほとんど寝たきりになった時に、自分に何ができたかを。
自分で動かせない人間の両足というのは、実に重い。
車椅子生活も不便極まりない。
階段の上り下りはおろか、ちょっと高いところに置いたモノさえ取れない。
洗濯機のなかをのぞき込めない。
洗濯したところで、濡れた洗濯物を高いとこに干す作業もできない。
普段何気なくこなしている日常の家事ですら、非常に困難な作業になってしまうのだ。
誰かに助けてもらわないと、ちょっとした用事もこなせない。
わがままを言わないと、生きていけない人魚姫。
それがジョゼからみた過酷な世界の現実なのだ。
だから恒夫に「夢を諦めるなよ」と言われたら、ジョゼでなくてもカチンとくる。
お前に何が分かるのかと。
それが逆恨みに近い感情であってさえも、抑えられない気持ちだってあるだろう。
鉛色の空。
冷たい風が吹き抜け、雨が降り出す。
言ってしまった言葉の冷たさ、鋭さに身震いする。
他者を言葉の刃で傷つける「虎」は、自分のなかにもいた。
自分の放った言葉と行動のせいで、恒夫を事故に遭わせてしまった。
償う術はない。
最初はちょっとしたボタンのかけ違いだった。
恒夫のバイト先で働く二ノ宮舞を見た時、忘れようとしていた痛みを思い出した。
店で働く舞のすらりとした 長く健康的な生足。
店に来た客である女子大生たちの屈託のない会話。
自分が望んでも決して手に入らないそれらはあまりにも眩しすぎて、目をそらせるだけで精一杯だった。
自分は甘えていた。
祖母に、そして恒夫に。
そして嫉妬もしていた。
いい夢を見すぎたという苦い想いもあったろう。
この辺のジョゼの気持ちを思うと、実に切ない。
だから別れて、きっぱりと縁を切ろう。
嫌われたって構わない。
自立して、独りで生きていけるよう強くならなきゃ。
そう決心した。
この辺の心理的な流れは、具体的に説明されている訳ではない。
それどころか、ジョゼが自分の気持ちに気付いているかどうかさえ怪しい。
なので、ジョゼの想いを汲み取れない人たちにとっては、唐突な印象を受けてしまうだろう。
気まぐれでわがままなキャラだな、と受け取られても仕方ないくらい表現としては抑制的だ。非常にハイコンテクストな手法であり、もはや文芸作品と言っていいレベルだ。
そもそも恋愛なんて代物は、健常者であっても難しく面倒臭いものである。
思うようになることなぞ滅多にないし、レベル上げして最強の手札揃えたと思っても、相手の一言で一瞬にしてゴミと化すクソゲーですらある。
ジョゼと対比して描かれるアニメオリジナルキャラが舞だ。
可愛くて人当たりが良くて、スタイルも良く健康的。
一見して完璧なヒロインだが、彼女が思いを寄せる恒夫にとってはただの友達でしかない。
そんな悲しい役どころの舞だが、ジョゼと修羅場を演じた時に東北訛りが少し出てしまう。彼女だってそれなりにコンプレックスを抱え、それを克服するために努力もしてきたのだろう。
そんな背景を感じさせる場面だった。
これはいい改変だし、グッドルーザーとして効果的なキャラ配置になっている。
「お前は身体障碍者という分かりやすいポジションで恒夫の同情引いているけど、私だっていい女になろうと必死で努力してるんだよ!後から出てきてわがまま言い放題で、好き勝手に振り回してたくせにふざけんな!」
舞の立場からしてみれば、そのくらい激しい感情を内に秘めていても不思議はない。
そうなのだ。
人を好きになるのに、はっきりした理由や原因がある訳じゃない。
美人だから、可愛いから好きになるとは限らないし、身体に障害があるから嫌いになることもない。
仮に事故に遭って車椅子生活を送ることになるのが、恒夫ではなく舞だったら、あのストーリーはどう変わっただろうか?
恒夫はリハビリに苦闘する舞の姿を見て、次第に惹かれるようになっただろうか?
あくまで私見だが、結末は変わらなかったと思う。
ジョゼは自立し、恒夫はメキシコに行く。傷を舐め合うような関係にはならない。
人の縁とはそうしたものだ。
結局は収まるべきところに収まる。そんな気がする。
人を傷つける虎は、もうそこには居なかった。可哀相な人魚も居なかった。
そこにいたのは、自由に泳ぐ魚たちの群れを悠然と眺める猫だった。
猫には自分を可愛がってくれる人と、支えてくれる友達がいた。
祖母の家がなくなっても、もう大丈夫だった。
自分の行く道は、自分で決める。
自分の居場所は、自分で作る。
そして自分の物語は、自分自身が描いていく。
それが生きるということだと分かったからだ。