貨幣vs物々交換
お金はやらしいイメージだ!物々交換こそ人の優しさだ!
みたいな話を聞く機会は多いです。まあ確かにそう思うことも少なくありません。ご近所でおすそ分けみたいな田舎的暖かさ、ヌクモリティのようなものは実際いいなと思いますし、だから退職したら田舎暮らししたい、なんて話が出るんだと思います。
ただ人間は歴史の中で文化的進化を遂げてきました。それらは基本的に便利になるよう進化してきたものであるはずで、そう考えると物々交換よりお金のほうが便利なはずです。実際にどうか、暇つぶしに考えてみました。
結論から言うと、お金のほうが私は「冷たくならない」と思います。
貨幣経済は暖かくはないですが、ストレスやトラブルにはよっぽど物々交換のほうが可能性が高いと考えます。
物々交換とお金の本質は価値の交換になるわけです。その違いは価値を定量化しているかしていないか。
(*今回の議論ではそこが違いになります。もちろん物々交換でもそれぞれの交換パターンにおいて定量化し、表をつくることはできるでしょう(途方もない作業でしょうが…)。
しかしそうなると物々交換は表を見ながら交換するだけの作業になり、それは結局貨幣経済での通貨交換を省略しているにすぎません。物々交換特有の暖かさは消えてしまうと判断しました。)
物々交換ではお互いがその物に対してどれだけ需要を感じているか、が交渉の争点になるわけです。需要と書くと経済用語っぽいですが、個人にしろ企業や国にしろ、主観的な感情に近いものです。
人間は嘘をつく生き物です。主観的な感情の話になると検証不可なのでどんな風にも言えます。相手がどれだけ欲しがっているか、自分の手元にどれだけ余裕があるかなど状況に応じて需要感を変化させます。結果、踏み倒しが起こるのではないでしょうか。これは貨幣経済の現在ですら残る悪習で、いわゆる「足元を見られる」というものです。
一方で貨幣経済であればその価値を定量化し、代替物であるお金によって決済を行います。もちろん定量化過程において主観的感情は入ってきますが、神の見えざる手によって価格は修正されます。
(神の見えざる手は定量化されることで同業他社との比較が容易になるために成立します。物々交換ではそれぞれに伺いを立てる必要があり比較が困難なため神の見えざる手は成立しないと考えます。)
このプロセスにより貨幣経済(定量化経済)において感情は基本的には介在しなくなります。これによってトレードは数学的に安定し、トレードによるストレスは限りなく軽減されます。
物々交換では温かい気持ちになることはありますが、主観的感情による踏み倒しや価値の非定量化による比較の困難など、それ以上にストレスになることが多いでしょう。
ではどうするのがベストか。基本トレードは通貨で行い、一部トレード(感謝など感情に起因する贈与等)は物々交換で行うのがよいでしょう。しかし、改めて書く必要はありません。なぜなら現在社会はそのようになっているからです。そしてそのようにベストな形への文化的進化を支える自然淘汰こそやはり万能論だと改めて思うのです。