PUAのジレンマとフェミニズムのジレンマ
以下の記事のコメント欄で少し興味深いやりとりがあったので引用したいと思う。ゴウノトリ氏がPUA仕草を身につけることがフェミニズムへのカウンターになるかという問題を提起し、匿名アカウント氏がそれに答えている。
非モテ男性が脱非モテを志すにあたり、PUA活動(ナンパ)を推奨するのがいまや定番のアドバイスとなっており、「非モテ/童貞こそナンパをすべき」と提唱するナンパ師は多い。
非モテ/童貞がナンパを始めてモテようになったとして、問題はその後である。モテるようになった後、どうしたいのか。単に女とセックスをしたいだけならナンパを続けていけばいいだろう。
しかし、非モテがナンパを始める動機として、セックスに飢えているというよりも長期的な関係を築ける彼女が欲しい、女から性的承認を得たいという動機が強いのではないか。単にセックスをしたいだけならカネで解決できる。風俗に行けばよいのだから。
ではPUA活動によって、一時的なセックス相手などではなく、長期的なパートナーシップを築くことはできるのだろうか。
PUAのジレンマ
長期的なパートナーシップを築こうとしたとき、PUA的なマインドが足を引っ張ると狂人小山氏も指摘している。なぜならPUAは「たくさんの女と一発やる」ことをゴールとしているからである。これを聞くと女性側は「それならナンパなんかやめて一人の女性と誠実に向き合えばいいのでは」といったこと言うのだが、話はそれほど簡単ではない。なぜなら相手からのアプローチを待っていれば恋愛が始まる女性と異なり、男性は自分からアプローチをしなければそもそも恋愛が始まらないからである。
男性が女性にアプローチするにあたっては「とにかく数を打つ」ということが重要である。恋愛工学の教科書として有名な『僕は愛を証明しようと思う』でも「男のモテ=試行回数×ヒットレシオ」の方程式が提唱されている。男にとって女から振られるのは当たり前のことなので、とにかく試行回数を増やして成功確率を高めていかなければならない。
つまり、男が恋愛の土俵に上がろうとした時点で「数多くの女にアプローチする」というヤリチン・チャラ男的な不誠実な振る舞いが必須となるので、男がモテようとすることそれ自体が「一人の女性と誠実に向き合う」という態度と両立しえないのだ。
こういった話をすると女性側からは必ずこういった反論が返ってくる。「ヤリチン・チャラ男なんて絶対嫌だ。誠実な男の方がいい。誠実な男が好きと言っている女はたくさんいるし、実際そういう男の方がモテる」といったものだ。
しかし、「非モテコミット」という言葉があるように、女側が一途で誠実な振る舞いをする男をキモがることはよく知られている。
一途で誠実な男を見て女がキモがるのは、必死感が出るからである。つまりモテなそうに見えてしまうのだ。一人の女に必死になっている男の姿は、その男が他の女に相手にされていない非モテ男であることを示している。そして女からすると非モテ男は本能的にキモいと感じるのである。
したがって、不誠実と言われようがなんと言われようが男が恋愛をする上で最も重要なのは多くの女にアプローチするというヤリチン・チャラ男的なPUAマインドである。しかし、PUAマインドでは一人の女性と長期的なパートナーシップを築く上で障害となる。ここにPUAのジレンマがある。
ここでアンチフェミのいつもの結論になるのだが、このようにPUAがジレンマに直面するのはそもそも自由恋愛だからである。自由恋愛のルールの中で男にとって最も合理的な「勝ちパターン」がPUA仕草を身につけることだからそれを実践しているというだけである。
ナンパというと軽蔑する女は多いが、ナンパ師たちも決して楽しんでやっているとは言えないだろう。ナンパ師ともよく仕事をしている宮台真司によると「ナンパ師はうつ病が多い」らしく、メンタル不調を理由にトークイベントをドタキャンするナンパ師が多いようだ。なぜかというと、ナンパをすると「どんな女でも意外と気軽にホテルに着いてきて簡単に股を開く」ということがわかってしまい、女に対する信頼が崩れるからだそうだ。
女を無責任にやり捨てするヤリチンが増えると言うことは、無責任にやり捨てされる女が増えるということでもある。だとすると自由恋愛は男にとっても女にとっても良い方向に作用しないので廃止した方がいいのではないかとも思われる。そして実際アンチフェミはよくそういった主張をする。
そもそも自由恋愛とは誰が得するルールなのか、というと間違いなく言えるのはフェミニズムである。自由恋愛なくしてフェミニズムの繁栄はありえない。逆に言うと自由恋愛が廃止されれば、そのときがフェミニズムの終焉である。しかし、昨今の若者の恋愛事情を鑑みるに、フェミニズムも自由恋愛の扱いについて難しい舵取りが要求されてきているのではないかと感じている。
フェミニズムのジレンマ
男は外で労働し、女は家で家事育児に従事するといった伝統的な性役割から女を解放し、出産の自由・結婚の自由といった女の性的自己決定権を保障するのが現代フェミニズムの基本的なドグマであると言えるだろう。だとすると自由恋愛を維持することがフェミニズムにとって死活的に重要であるのがわかる。
共同体の同調圧力によって出産や結婚を強制された時代であれば、女は適齢期になるとお見合いによって男と番わされていた。そのような時代では"好きなときに好きな人と結婚する"ことは許されず、"そもそも結婚・出産しない選択をする"ことも許されない。
そしてフェミニズムはこのような時代の制度を「女を抑圧する悪しき家父長制」として糾弾する。
たしかに、このような時代の制度が女の自由を抑圧し、女の人生の選択肢を大幅に狭め、女を男のサポート役に従属させることで生きにくさを強いていたのは間違いないだろう。
では、フェミニズムは女を幸福にしたのだろうか。単に”女の人生の選択肢を広げた”、”女をあらゆるしがらみから解放して自由にした”と表現するならフェミニズムは素晴らしい思想だと言えそうだ。しかし、ここで注意しなければならないのは、行為の自由を保障することは行為の結果まで保障することを意味しないということである。
現代の女性は結婚しない自由、出産しない自由が保障されてはいるが、では当の女性たちは結婚・出産を望んでいないのだろうか。
国立社会保障・人口問題研究所が実施した18〜34歳の独身者へのアンケート調査では、1987年から2015年までの調査すべてで90%前後の女性が「いずれ結婚するつもり」と答えている。
大半の女性がいつかは結婚したいと考えているようだ。では、自由恋愛によって好きな相手を選べるようになった結果、世の女性たちは好きな相手と結婚できているのだろうか。もちろんそういう女性もいるだろうが、ネットでよく叩かれる「高望み高齢婚活女」の存在からもわかるように、婚活で相手が見つからず苦しんでいる女性は少なくない。客観的には高望みしているだけであったとしても、彼女たちの主観では高望みではなく納得できる相手が見つからないということだからだ。
女が自由に恋愛できるということは、当たり前だが男も自由に恋愛できるということである。そして男が自由に恋愛できるということは、「『将来結婚しよう』などと嘘をつきながら他の女に手を出しつつ、女が歳を取ったら捨てる」といった不誠実極まりないクズ男ムーブも法的に許されることを意味する。
自由恋愛とはそういうことである。犯罪にならない限り何をやっても自由なのだ。女に好き勝手な振る舞う自由が許されるなら、男にも好き勝手に振る舞う自由が許される。当たり前の話だ。男の自由だけを制約することはできない。男も自由、女も自由。それが自由恋愛の基本原則である。
だからこそ女は恋愛においてセックスだけが目的の男、いわゆる「ヤリモク」の男を慎重に見極め、排除しようとする。しかし、ことはそう簡単ではない。なぜなら女が恋愛において「この男はアリ判定(この男とはセックスできる判定)」をするのは大抵モテる男であり、モテる男は遊び慣れているので「僕は一人の女性を一途に愛する誠実な恋愛をしよう」といった童貞っぽい思考の者はおらず、基本的に全員ヤリモクだからだ。ヤリモクでない一途で誠実な男は存在するが、そういう男は概して非モテなので女が「アリ判定」を出さない。女にとっての理想は「モテるけど私にだけは一途で誠実な男」なのだが、残念ながらそういう男は少女漫画にしか存在しない。
そして非モテは恋愛市場で選ばれないので、一途で誠実な非モテ男は恋愛市場から退場していく。そして恋愛市場にはモテるけど不誠実なヤリモクの男だけが残る。
白饅頭noteでも最近大きな反響があった記事「戻ってきて!」においてもその問題が登場している。20代男子とマッチングしないと嘆く20代女子からのマシュマロが紹介されているのだが、その20代女子によるとマッチングアプリで同世代の男性を探してもそもそも数が少ないのでマッチングせず、「ようやく年が近い人とマッチングしたと思ったらヤリ目とか最悪の場合既婚とかで、まともな人がほとんどいないのです」とのことだ。
自由恋愛のルールに適応した男女の"自由な振る舞い"は、マッチングアプリによってさらに加速した。マッチングアプリが普及していなかった時代ではコミュニティ内の恋愛が主流であったが、そこでは不誠実な振る舞いをした男女はコミュニティで汚名を着せられ、排除されていたはずだ。
しかし、マッチングアプリによってコミュニティ内での地位や評判を気にする必要がなくなったことで倫理的な枷がなくなり、欲望に忠実で自由な行動をとることができるようになった。
その結果、自分勝手に振る舞える一部のイケメン・ヤリチン・モテ男が一人勝ちして女を独占するWinner Takes Allの時代が到来した。自由恋愛にテクノロジーが掛け合わされた結果である。
ここで最初の問いに戻る。フェミニズムは女を幸福にしただろうか。伝統的な性役割を否定し、自由恋愛を推進することが女を幸福にしたのだろうか。フェミニストはこれに対して意地でも「フェミニズムは女を幸福にした」と答えなければならない。そうでなければ女がフェミニズムを支持する理由はなくなるからだ。
しかし、私たちアンチフェミは「フェミニズムは女を幸福にしなかった」と言わなければならないだろう。いや、正確には「ほとんどの女を幸福にしなかった」と言うべきだ。一部の女は自由恋愛によって幸せを得られただろう。自由恋愛によって素晴らしいパートナーを得られた女、結婚や出産でキャリアを中断されることなく仕事に生きたい女、マッチングアプリでイケメンハイスペを漁って一時的な関係を持つことで満足している女である。
一方で、自由恋愛によって不幸になった女たちも数多くいる。不誠実な男にやり捨てされた女、真面目にパートナーを探しているのに恋愛市場でヤリモク男や既婚者ばかりに引っかかってしまう女、まともなスペックの男が恋愛・結婚市場から退場したために相手が見つからず苦しんでいる女。
自由恋愛によって運良くパートナーを見つけられた場合でも、離婚する男女は少なくない。恋愛結婚はお見合い結婚よりも離婚率が高いということは婚活業界でよく言われている。ある婚活サイトによればお見合い結婚の離婚率が10%であるのに対して、恋愛結婚の離婚率は40%であるらしい。
そう考えると、自由恋愛で幸福を得られた女は少数派に過ぎず、自由恋愛によって不幸になった女の方が世の多数派なのではないかと私は思っている。
フェミニズムは女を幸福にしなければ存在理由はないのだが、事実としてフェミニズムが推進する自由恋愛によって多くの女が不幸になっている。自由恋愛を維持することと世の多数派の女の幸福は両立不可能である。これがフェミニズムのジレンマである。
PUAのジレンマとフェミニズムのジレンマ。この二つのジレンマは自由恋愛を番にした左右の両翼である。私たちはこの二つのジレンマの間に挟まれ、苦悩しながら自由恋愛社会を生き抜いていかなければならない。狂人小山氏やドグマ氏のようなPUA寄りのアンチフェミニストたちが常々訴えている問題は突き詰めるとここにあるのではないかと思っている。
では自由恋愛を廃止した先に苦悩からの救済があるのか、というとそれもまた違うだろう。自由恋愛を廃止したとしても私たちは共同体のしがらみの中で生きていかなければならず、自由がもたらす快適さを失うことになる。
おそらく、なにをどうしたところで恋愛や結婚のようなパートナーシップの形成に伴う苦悩からの救済はなく、与えられた条件の中で各人が最適な行動をとって生きていくしかない。
しかし、少なくともフェミニズムは批判されなければならないと私は思う。女を伝統的な性役割から解放し、人生の選択肢を広げ、自由を与えることであたかも女に幸福をもたらしているかのように見せかけながら、その実多くの女を不幸にしているからだ。性被害を受けた女に優しい言葉をかけながら理解者のフリをして近づいてくるレイプ犯のような醜悪さをこの思想から感じる。