【体癖考察】ねじれ型は好戦的ではない◆はど式体癖
ねじれ型の一般的なイメージ
ねじれ型7・8種は一般に「闘争型」とされ、「勝ち負け」が感受性の中心であると言われている。
7種は表立って誰かと競争し、緊張感がないと満足することができず、常に威張っているが、情熱的で親分肌であると言われている。
8種は7種と比べて勝負には消極的だが、心の底では密かにライバルに対して闘争心を燃やしており、忍耐力と逆境に強いが、天邪鬼と言われている。
そういう性格であるがゆえに、ねじれ型は悪いイメージが付きまとうことが多く、変に敬遠されたり、戦いを好み挑戦的なイメージで語られることも多い。
しかしながら、自分はこれらの解釈はあくまで表面的な印象によるイメージが占める割合が大きく、「なぜ、そのようなイメージになってしまうのか」という根源的な理由の説明を、ただ「感受性がそうだから」という理由で無理やり説明しているような気がしてならない。
この記事では、ねじれ体癖に対して自分が思う、ねじれが好戦的に思われてしまう深層の理由について掘り下げていく。
勝ち負けとは客観である
体癖論とは、よくある性格診断のような、1つのタイプによって性格が決まってしまうわけではない。
人間とは不完全な生き物であるがゆえに、様々な性格が交じり合って個性となっている。それを読み解くことができるのが体癖なのだと思っている。
一見、その体癖の特徴と合致していなくても、各体癖の深層にある信念をたどって行けば、本当にその体癖らしい人間であることが多い。例えば、7種であっても、勝ちにこだわらず負けを避ける行動をすることもあれば、8種であっても、トップを取りたがることもある。大抵そういう場合、勝負外にその理由が隠されているものだ。
通説として、7種は勝ちを取りたがり、8種は負けを避けると言われているが、その「勝ち負け」が客観的なものか主観的なものかによって、勝負の結果の見た目など全く異なるものだ。
「肉を切らせて骨を断つ」という言葉があるように、「負けを取りつつ勝ちを取る」という戦術もあるので、その勝負だけで完勝することだけが「勝ち」ではない。
かつて島田紳助が「勝てる勝負しかするな」と言ったように、勝負をする前段階から、勝負は終わっているという状況もまた、「勝ち」なのだ。
さらに、皆が言うこととは違うことを言おうか。
そもそもねじれ型は、勝負事が好きなわけではない。
ねじれのプライド
ねじれ型は「プライドが高い」のだ。
ねじれ型が闘争型と言われる所以は、プライドという特性が勝負どころでばかり発揮されるのが原因としてある。
人間社会において、プライドとは競争的な状況での活用が目立つために、人間観察においても勝負や競争といった行為が目立ってしまうだけなのだ。
しかし考えてもみてほしい。プライドは競争や勝負、戦闘などのような状況以外にも応用される精神だ。
自分の能力や物事の成就を内省的に評価して自己肯定感を高める、自己啓発的なメリットだって存在する。プライドがあるからこそ行動の動機付けの源泉となり、物事の実現に向けた促進剤となり得るのだ。
このような側面は客観的な目線でばかり見ていては分からないものである。
7種はプライドを傷つけられるのが怖い
7種がなぜ勝負を勝ち取ろうと躍起になったり、大げさな言動をしたり、弱い者には威張ったり 強い者にはお辞儀したりするのかと言えば、
自分の輝かしいプライドを常に磨き続けていたいからだ。
常に自分を強く見せ、尚且つ自分よりも強い人間に対して敬意を忘れないのは、自己評価や社会的立ち位置を維持するのに至極必要なことであり、
逆に言えば、自分の社会的な立場を失ったり、自分で自分の価値が下がったことを自覚することが、とてつもない焦燥感や不安感になるのだ。
7種は5種の様に損得勘定ができないので、とにかく往生際が悪い。
自分のプライドが通用せず負けが込んでくると苛立ち、どんな手段を以てしてでも「わからせよう」と努力するのだ。
だから話はオーバーに盛って自慢するし、勝つまで勝負を続けようとするし、ダイナミックなものを好むし、怒ると感情を大爆発させるのだ。
しかしながら、7種が実際にプライドを持って勝負をする場合、相手を常に「自分より弱いか、同等より少し下ぐらいのライバル」と思って挑む。
だからこそ、プライドを保った状態で逆に「わからせられる」と、爽やかに負けを認めることもある。自分より上の人間に対して恥ずかしい真似をすれば、それこそ自分のプライドが揺らいでしまう行為だ。
「お前には敵わないな。だが、戦えてよかった」と思わせれば、勝負も平和に終わらせることができるというわけだ。
8種は信念を曲げるのがつらい
8種がなぜ、勝負に対して消極的であり、密かに心が燃えており、弱きを助けるようなことをするのかというと、信念で生きているからだ。
8種には7種と違ったプライドがある。それは、自分の信念を貫き通すということであり、常に自分の行動哲学について考え、人間としてどうあるべきかを念頭に置いて日々を過ごしているのだ。
8種にとっての闘争とは、まさに「自己との闘い」なのだ。
天邪鬼であったり、褒められても素直に喜べなかったり、アドバイスと逆のことをやってしまったりというような行動はまさに、8種が常に苛まれている心理的葛藤から現れる行動である。
外部からの評価・期待・圧力・制約、自己の脆弱性や不足感などに対して、抵抗したり挑戦的になることによって自分から距離を置き、時間をかけて飲み込もうとするために、「素直でない」行動を取ってしまうのだ。
一般に8種は「負けたくない」という性格を持っていると言われているが、そうではない。8種は「負けても勝てる」のだ。
「死ぬこと以外かすり傷」という言葉はまさに8種の言葉である。
どんなにボロボロになってひどい負け方をしても、自分が信念を持って立ち向かったという結果が残ったことが8種にとっての勝ちであり、実際のところ、勝負の場で勝とうが負けようが、どちらでもよい。
自分がどのような信念で生きてきたか、それが最も重要なことなのだ。
ねじれの真のライバルこそ、人生である
人間は絶え間ない進化と変化によって、内的な葛藤や外的な挑戦が変遷しつつある。人生もまた進化と変化の繰り返しであり、個人の意思を超えた不確定要素に満ちて溢れているものだ。こうしたものと遭遇したときに、ねじれは挑戦的に受けて立つ凄まじいエネルギーを持っている。
ねじれを語る上で重要なのは「自己超越」である。
7種は人生と言う大舞台での演技を通じ、自己のプライドを築き上げ、競争を超えた真の強者を追求し、8種は人生の荒波に揉まれ泥水をすすってでも、自己の信念を曲げず、自分という人間を貫いていく。
人生という無限の可能性に果敢に挑む、深い哲学を持つ体癖、
それが、ねじれ型なのである。
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