愛されていたことを認めたら
『愛されなかった子』『理解されなかった子』を長年やってきて
それを乗り越えて生きていた、みたいな
悲劇のヒロイン的思考が長年抜けず、
それが顔を出さなくなっても、根底にある
『私は親に理解されなかった子』という設定は消えなかった。
消してしまったらいろいろ崩れそうだったからだ。
何しろそういう設定で生きてきたから。
小学生から複数の精神病を患ったことも
青春時代やんちゃだったことも
彼には依存気味になりやすかったことも
モラハラ男ホイホイだったことも
社畜になって、結果職場で発狂してドクターストップかかったことも
産後に要保護児童とその母として役所にお世話になりまくったことも
根っこの根っこには
『愛されなかった子』『親から理解されなかった子』がどこか言い訳として存在していた。
今ならわかる。
言い訳が必要だったし、そこに縋るのが私の甘え方だったんだろう。
見てほしい、構って欲しい。
だってそうじゃないから私こうなんだよ、って。
まぁ、そんな押しつけがましい1人よがりは
見てほしい人にはもちろん見てもらえなくて、
支配欲強めのやばいやつか
共感性高くてお互い落ちてくしかない人しか寄ってこなかったんだけど。
それに『愛されていた』と認めることは
今までの私の気持ちを
間違いだった、とすること。
下手したら存在意義にまで影響するくらい私には一大事なことだ。
でも実際は、愛されていたと認められても
今まで持っていた気持ちは何も否定されなかった。
むしろ「あぁ、よかったねぇ。私しあわせだなぁ」と
今まで感じたことが無いくらい満たされていった。
自分自身がやっと
自分の存在を「在ってもいいもの」として認めたから。