感動ポイントとシューディンガー
昨日、会社の人たちと夜の街、といってもいかがわしいところではなく本当に帰宅途中の夜の街、を歩いていた時に、一人がイルミネーションを見て「綺麗っすね。なんか感動しますね」と言ってきた。
僕は「綺麗だとは思うけど、感動はしませんね」と返した。
感動する心を忘れちゃったかと言われ、どんなことに感動するのかと問われた。
ふと、周りを見回して「こうして人がしっかりと存在して歩いてることですかね」と言うと、ポカンとされた。
そのリアクションも分かる。言いたいことも分かる。
案の定、「(頭)大丈夫ですか?」という声が他の人から飛んできた。
まあ、そうだよな。
それでも何に感動するのかと問われ、周りを見回して最初に思ったのが、人が存在していることだったのだから仕方がない。
見ず知らずの人たちがただ歩いていることに心が動いたのだ。
この人たちの心臓はきちんと動いていて、赤い血が身体中を巡っていて、自分の足でどこか目的地に向かっているのだ。誰かに会うために、自分を癒すために、家に帰るために、再び仕事をするために。
目的は違えど、確かに目の前には「生」があって、その人たちの存在を認識できた。
たったそれだけのことに心が動いた。感動した。
けして適当に答えたわけではない。
それでも、周りのリアクションも理解はできる。
誰かが認識する時にはじめて存在する。
それまでは存在している状態としていない状態、両方の可能性がある。
シュレーディンガーの猫と同じこと。
もうすれ違うことも、接点を持つこともないであろう人たち。僕はその「生」をあの瞬間たしかに認識し、存在を認めたのだ。
誰かに認識をしてもらえない、または認識をしたい誰かを認識できないというのは、存在そのものがあやふやになりそうな気がする。
自分の存在への興味はさほどないけれど、誰かの存在を認めてあげたいという烏滸がましさが、感動ポイントになったのかもしれない。
だから適当に答えたわけではないんだ。
存在証明なんて大それた話ではないけど、ちっぽけな一人の存在をきちんと証明してあげたい。それだけ。
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