つまるとこと、そのAIに、愛(AI)はあるのか?
いやはや、いきなりサラ金のコピーみたいですみません(笑)
世の中、なんでもかんでもAI、AI、AI
こと音楽の分野では、音楽の素養がなくてもAIで作曲できちゃう! みたいなものもありますが、それって「作品」と呼べるのでしょうか。仮に「民族音楽」というキーワードで実際に試してみるや「なんじゃこれ?」的なものしか出力しないんですよ。YouTubeなどの動画のBGMに使う程度なら良いのですが「これが自分の作品だ」とは、少なくともきちんとしたミュージシャンシップのある人間ならしないでしょう。僕もミュージシャンの端くれです。あんなものを作品にして出す勇気は、まったくありませんね(笑)。
白状します
実は、昔(30年近く前)からそういった“合成”による自動作曲ソフトというものが存在しており、テキトーにジャンルなどの要素を打ち込むと、それっぽくかつ「どーでもいい」音源データを瞬時に合成してくれました。当時は実際の音(オーディオデータ)ではなく、MIDIという演奏データなのですが。
ここで白状しますが、そういった合成アプリを使って音楽の仕事をしたこともあります。しかしそれは今でいうYouTubeなどの動画のBGM同様、なにかのPRビデオのBGMだった気がします。そういった仕事でおいては、そこに独自性やアーティスト性を盛り込むのは逆に野暮というもので、スピードとだれでもが聴き流せる当たり障りのなさが要求されるのです(いいわけw)。
アートでも…
同様アートというかイラストなどのビジュアル系でもAI合成した〇〇風のものが多々ありますね、例えば美少女系とか。
やた目が大きく、童顔であるにもかかわらず無駄におっぱいが大きい。しかも「なんでそんなかっこしてるの?」というほどに着衣の面積が少ない(笑)。あきらかに男性目線というやつですね。造形として不自然ですし、意図が見え見えで心底吐き気がしますね(笑)。
まぁそれはともかく…。
美少女系以外でも、例えば自然の風景だったり、動物だったり…。あのようなも「作品」と呼べるのでしょうか? それこそPRビデオのBGMよろしく、刹那的なある特定のニーズに対しての商業的アピールの手段としてはありかもしれませんが、ああいったAIで合成されたいかにも人の目をひきそうなものは、とてもアートと呼べる代物ではないと思いますね、少なくとも僕は。
なにが表現したいのかが問題
ああいったAI画は、なんというか表現としての紆余曲折もなく「産みの苦しみ」を経ていない。いや、苦しみがなければいけないわけではないのですが「表現したいもの」と「換金できるもの」のどちらが先なのかという話なのです。 つまり「こんなの作ったら売れるかも」的発想で作ったものというのは、やはりいかにも薄っぺらさが全面に出てしまう気がします。よって、そもそもが薄っぺらいものをどう調理(加工)したとしても、そこに作品としての深みはどうがんばっても生じないと思うのですよ。
音楽に例えると
音楽に例えてみますと、クソつまらないメロディは、「どう煮ても焼いても食えない」ということです。アレンジで凝ったどころで、元となるものがしっかりしていなければ、どうにもならないのですよ。具体的にいうなら
・奇抜な音色の使用
・奇抜なアレンジ
・わざとらしい変拍子の導入
・無駄な転調
・無理やりな曲展開
・アプリ搭載のプラグインによるエフェクトの多用
など、まぁいろいろありますが、小手先の加工をほどこしたどころで、元のメロディがよくなるはずもないのです。こういったことって、アマチュアではよく陥りがちなことです。脆弱な屋台骨は、どうやっても太くはなりません。
AIアートの現状
たしかに写真と見紛うようなものもありますが、以前みたものでは、ギターを弾いている女の子、左手の指が6本だったり、ギターの構造がでたらめだったりというものがありました。写実的なものではなく、抽象的な表現をメインとするならそれでもよいかもしれませんが、キャラの女の子はかなり写実的に描かれているにも関わらず、それ以外がでたらめだといったいなにが描きたいのかまったく理解できません。つまりは「何を表現したいのか」という目的や思想がそこにはないからだと言えるのではないでしょうか。
あんただってPhotoshopでエフェクト使ってるじゃん!
実は写真の仕事もしております。Photoshopとは、写真データの補正や加工を行うプロ御用達のソフトです。
エフェクトとは、特殊効果のことで色を変えたり、不要なものを消したり、あえてノイズを加えたり、などの効果を写真に施すこと。はい、私もかなり多用してます。しかしそれは元の写真があってこそ。音楽でいうメロディですね。つまり元の写真が良いものでなければ、いくらエフェクトでこねくりまわそうが、どうにもならないというのは言うに及ばず、だと思うのです。
つまり、心情のない薄っぺらいものは、何をいくら重ねようが、薄っぺらいことにはかわりがないということ。
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