『MIYAMA #4 阿古屋』
深山市の裏社会で起こった黒木と沈倫の確執は、ついに具体的な暴力として表出してしまった。かつての盟友との間に渦巻いていた険悪な空気は現実のものとなり、麻里田住民を不安と恐怖で覆っていく。病室の静けさとは対照的に、沈淪の心にはあの夜の激しい記憶が焼き付いていた。
一方その頃、深山市の影に潜む真実を暴こうと、新聞記者の井原は滞在していたホテルで夜を徹して記事を書いていた。彼女の目の前には、これまでの取材ノートと市内の暴力事件についての断片的な情報が散乱していた。彼女はひとつひとつの記事を丁寧に読み返し、この町の隠された真実を解き明かす手がかりを探していた。その中で、最近の暴力事件についての話題がいくつも出てきた。初めは誰もがその話題に触れることを避けていたが、時間が経つにつれ、よく聞く名前があった。それが沈淪だった。
「沈淪がなあ」とある地元住人が声をひそめて言った。「黒木と何か揉めていると噂されとるんじゃが、細かいことはわからんなあ。あの二人が絡んどるんなら、ろくなことにはなりゃせんのお」住人たちの間に漂う不安と恐怖は、井原の取材に対する執念をさらに燃え上がらせた。
この事件の背後に黒木がいるという情報は、彼女の直感と一致していた。住人たちの間で彼の名が出た時、井原は驚くどころか、自身の推測が正しかったことに対する確信に満ちた。沈淪が全治二ヶ月の怪我を負って入院しているという事実も彼女の耳に入った。井原は沈淪がどんな人物で、なぜ黒木との間でこんなに深刻な確執が生まれたのか、その一端を探ることで、黒木の人物像をより鮮明に浮かび上がらせようと試みる。
取材を進めるにつれて、この事件の背後にある黒木の存在が明確になり、井原は沈淪が黒木との関連があることを知る。この事件はたんに二人の確執だけにとどまる話ではないと井原は直感した。深山市の暗部に隠されたもっと大きな実態の一部に過ぎないのではないかと彼女は感じている。
井原は震える手でペンを握りしめ、新しいページをめくった。この街の沈黙の裏にある真実を明るみに出すため、彼女は決意を新たにしていた。彼女の目的は、黒木を追うだけではなく、この街の人々が抱える恐怖と黙認の文化を打ち砕くことにあるのではないかと考えるようになった。
沈淪は退院した日、灰色の空が彼の心境に重なるようだった。退院してしばらくは沈淪は自宅にこもり世間との接触を避けていたが、町の中ではある噂が広がっていた。不比等の採用には沈淪が関係していて、沈倫のことを嫌う黒木が権兵衛をけしかけて不比等を不採用にしたという話だ。この噂を耳にすると、沈淪の心に怒りが再び湧き上がった。彼はその真相を確かめるべく、行きつけのスナックへと足を向ける。
店内の照明は暗い。喫煙で曇った奥のカウンターにはいつもの客が並んでいて、沈倫が入ってきたこと知ると、彼が退院したことを知らなかったカウンターの客たちは一様に驚いた表情をした。
「沈淪じゃないか。ケガはよくなったんか?」店の男が心配して尋ねるが、沈淪はただ頷くだけだった。
しばらくして権兵衛があらわれる。沈倫は権兵衛の隣に移動し、何があったのか、何をしたのか、すべてを聞き出そうとした。しかし権兵衛は沈淪に正面から向き合おうとせず、彼の質問に対してもはっきりとした答えは避けた。
「権兵衛、お前が何をしたんか、俺は知っとるぞ。不比等の件じゃ。真相を話せや」
しかし権兵衛はのらりくらりと明言を避け、苦笑いを浮かべただけだった。
「沈淪、お前もこの町のことはようわかっとるじゃろ。もう掘り返すなや。おれにはどうしようもできんのじゃ」
その晩、沈淪は結局何の手がかりも得られずにスナックを後にした。権兵衛の言葉が彼の中で重くのしかかる。店の男の慰めの言葉も、彼の耳には届かない。スナックからの帰り道、彼の足音は無意味に反響し、まるで彼の内面の虚しさを映し出しているかのようだった。
同じ頃、不比等は買い物のために隣町の須磨穴に足を運んでいた。人目を避けながら店々を回る中、偶然、仕事帰りの梶原阿古屋と出会う。阿古屋は市役所職員で、建設局の都市住宅課に勤めている。彼女は権兵衛の総務局とは関わりを持たないが、不比等が不採用になったのは黒木が権兵衛に持ちかけた話だということは、市役所内では誰もが知っていることを伝えた。不比等の中で怒りが渦巻いた。
「え? 黒木が関わっとんか?」
阿古屋の話によれば、権兵衛は黒木の言いなりになっていて、市も黙認状態になっているらしい。
「不比等くん、私は三条グループの動きは見ててならんわ。深山市はもう彼らのいいなりじゃし、宗春にも黒木にも我慢ならん。このままじゃ市全体が彼らのいいようにされてしまう」
不比等は彼女の言葉に頷き、憂いを帯びた目で応じた。「そうじゃな。俺も帰ってきてからまだ少しじゃけど、そんな感じはするなあ。それにまさか俺の市役所の話にも黒木が出てくるとはな」
阿古屋は周りを確認すると、小さな声で言葉を続けた。「あんな、実は私たち数人で小さな勉強会をやっとるんじゃ。みんな三条グループが嫌いで、じゃけど彼らの存在は無視できんじゃろ。深山にいる限り、どこにでも宗春は首をつっこんでくるからな。なんとか奴らの影響を弱める方法はないかと、そういう勉強会なんじゃ」
不比等は驚いたが、同時に関心を持った。「それは面白そうじゃな」
阿古屋は少し眉間に皺を寄せながら言った。
「基本的には暴力反対の立場で、平和的な解決を目指しとるよ。でも、このご時世きれいごとだけじゃあ何も変わらんし、必要ならば強い手段に出んといけんかもしれんしな」
阿古屋は少し間を空けて続けた。
「どうかな? 不比等くんも私たちの勉強会に参加してみん?」
阿古屋は真剣なまなざしで不比等を見つめている。「この町の将来を心配しとるなら、きっと意味のある活動になると思うし、まあ考えてよ」
「そうじゃな。ちょっと考えさせて。働き口もなくなったことだし、たぶん入ることになるじゃろうけど」
不比等はそう言ったが、内心ではすでに答えが決まっていた。
その夜、権兵衛は沈淪から接触があったことを黒木に伝える。電話越しの黒木の声は冷静で、彼らにどう対処すべきかを熟考していた。
「権兵衛さん、事態をもう少し見守ろうや。沈淪と不比等が次にどう出るか、それによって対策を決めようで」
電話を切った後の黒木の顔には、深山市の裏社会を支配する男の冷酷な決意が浮かんでいた。沈淪も不比等も、深山市で生きていく上で避けては通れない道を歩み始めていた。それぞれの決断がこれからこの街に何をもたらすのか、誰にも予測はつかない。
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