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かくれがに

 好きじゃなくなったから別れてほしいと恋人が言う。理由は「蟹が死んだから」だそうだ。蟹? うん、耳の蟹。こいつ嘘をついてる、と反射的に思った。おおかたどこかでひと目惚れでもしたに違いない。二年前がちょうどそんな感じだった。満席のバーで飲んでいたら知らんやつがまっすぐ向かってきて、店を出る頃には長い付き合いになることをお互いうすうす覚悟しており、翌週には同居していた。恋人は「これが蟹。昨日出てきた」と言って、手の中にすっぽり隠れるほどの小さな瓶を取りだした。
 「誰にも言わんといてな。おれの誠意を知ってほしいから見せるんやから」と恋人はなぜか赤面しており、やかましいわ、と思った。先月アパートの更新したばっかりやのにどうするねん。瓶には小指の爪くらいの大きさの小さな蟹が入っていた。まるっこくて半透明で、苔のようなくすんだ緑色をしている。脚は体に比べて短い。アサリやハマグリの中にたまに入っている蟹、あれに似ている。冗談を言っているのだと思って相手にしないでいたら、「わかった、じゃあちょっと耳を見てくれ」と言って恋人は床に横になった。スマホのライトで右耳の中を照らしてみると、奥の方にあったはずの隆起がなくなって、かわりに大きなくぼみができていた。以前耳をのぞきあって「性格だけじゃなくて耳の穴までひねくれてる」とふざけあったのだから思い違いではない。今日は友人の家に泊まると言って恋人は出ていき、ひとりで家に残された。
 ネットで”耳の中 蟹”で検索したけれどそれらしい結果はヒットせず、眠れなくなってひたすらスマホをいじっていたらLINEの通知音が鳴った。恋人が泊まりに行った、共通の友人からだった。「調子どう?」と遠慮がちなメッセージだけが来ていたので、「耳の中の蟹ってなんか知ってる?」と返したら、すぐに通話がかかってきた。「今あいつコンビニ行ってんねん」とのことだった。ひととおり今日のことを話すと、友人はうんうん、と聞いたあと、「蟹ならまあ、しゃあないな」と言った。「蟹のことなんか知ってんの?」「いやまあ、知ってるいうか、あれやけど。うん」となんとなく歯切れが悪い。「ごめん、その蟹っていうの、ほんまになんもわからんのやけど、何?」「あの、まあ蟹つきって時々おるんよ。あいつがそうやったとは知らんかったけど。おれから言えるのは、つらいけど忘れるしかないってことと、耳鼻科行けってこと。あ、帰ってきたっぽいからもう切るわ」通話は一方的に切られて、また静けさが戻ってきた。二十分ほどしてから「耳鼻科行ったら耳にごみが詰まってますって言えよ」とメッセージが来て、そのあとすぐ「人にあんま話すなよ。おれは偏見とかないけど」の吹き出しが増えた。
 耳鼻科には行かなかったが、かわりにマッチングアプリを入れた。べつに相手を見つけようというのではなく、いや少しはそれもあったのだが、耳の中の蟹について情報収集するためだ。どうもおおっぴらにできる話題でないらしいことはわかったので、見ず知らずの人に聞きたかった。活動範囲や趣味について当たり障りなくやり取りしたあと、「ところで耳の中の蟹って知ってる?」と質問すると、反応は大体三つに分かれた。ひとつは「知らない」という素っ気ない返事のあと、すぐ別の話題に移るパターン。ふたつ目は「聞いたことはある」のあとに「でも、都市伝説じゃない?」とか「別に気にしないけど」とか続き、しかし詳しく聞いても教えてくれない。みっつ目はそのまま音信不通になる。みっつ目が一番多かった。あまりにも多いので、だんだん自分以外の世界中の人間が耳の中の蟹について知っているのではないかと思えてきた。こうなると知らないと言った人間も疑わしいものだ。それまで会う気満々のメッセージを送ってきた相手も、蟹について言及した途端トーンダウンする。アプリのメッセージ履歴が増えるにつれて、家の中の物はだんだん減っていった。仕事に出かけている間に、恋人が私物を運び出しているのだった。
 しばらく経つと、最後まで残っていたPS4がある日とうとう消えていた。たしかにほとんど恋人しか使っていなかったが、ワリカンにしたのではなかったか。一瞬腹が立ったが、圧迫感のある黒い筐体とホコリまみれのコードがなくなった床は清々しく、餞別にくれてやろうと思い直した。もう残っているのは蟹の入った小瓶だけだった。数えてすらいないが、アプリで音信不通になった人数はもう百人を超えているはずだ。
 小学生の時に中耳炎になって以来、大人になって初めて耳鼻科を訪れた。どうしました、とやさしく医者に言われ、友人の言葉を思い出して「耳にごみが詰まっているみたいです」と答えた。医者は右耳を見て異常ないですねと言い、左耳をライトで照らした。「あ……」と医者の口から声がこぼれ、すぐに細いピンセットがごそっと大きな音を立てて、「はい、取れましたよ」と声をかけられた。それだけで、それだけだったのだが、何かとてつもないものが耳から出ていった感覚があった。音の聞こえ方が変わっていた。空気の鳴り方が違っていた。待合室で他の患者を呼ぶ声が、耳の中を絹でなでるような感触と一緒に飛びこんできた。「あの、すみません」と言った自分の声も、だから知らない人のように頭の骨の中で響いた。「取れたものを持って帰ることはできますか?」とその声は言った。
 家に帰ると知らない家のようだった。鞄からピルケースを出して中身をつまみ、恋人の置いていった瓶の中に移し替えた。二匹の小さな蟹が積み重なっていた。そうっとゆすると、からからころころと楽しい音をたてた。しばらく耳元で瓶を鳴らしながら家の中をぐるぐる歩き回ると、さっきまでのよそよそしさが嘘のように消えて、いかにも自分の家のように感じられた。どちらがどちらの蟹なのかはもうわからなかった。


(了)

初出:2020/06/17 犬と街灯とラジオ#6 11:10~


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