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“努力しない”ことは快適か?INTJ
“努力しない”ことは快適か?
努力しないことは、誰にとっても魅力的な生き方のように思える。昨今、特に努力しない・頑張りすぎない生き方は、若年世代から支持を得ている。努力しないだけで良いので、簡単そうに思えるが、実際には努力しないことには多くの難しさが伴う。私自身も努力しない生き方には憧れがある。日常の些細なことから幸せを見つけて、穏やかに生活を送る。そしてその生き方に自分自身が満足する。
私もできるなら、こんな風な生き方をしてみたいが、なかなか難しく、ついつい何かしら”努力”をしてしまう。
競争の中での努力
努力をしてしまう一つの要因は、社会の中で競争を強いられるからでしょう。学生でも受験や定期テストで競争させられるし、良い大学に入って、一流企業に入社しても出世争いをさせられます。競争をしようと思っていなくても、戦場に入れられれば、自分の身を守るために力をつけざるを得なくなる。また良い人は会社のためにとか、同僚に迷惑をかけたくないといった理由で、過度に責任感を感じて、労力を費やしてしまう。現代社会は、私たちに大変な思いをさせて、何か頑張らせるのが得意だ。そのおかげで社会が豊かになったという側面はあるのだろうけれど。
だが上述したようにこうした社会のあり方に、人々がだんだんと飽きてきているし、これ以上必要なくらいに社会は便利になっている。だから努力する必要性があまりないのだ。それでも努力を強いる社会の構造は変わっていない。このアンバランスが現代人の精神を蝕んでいる原因だと私は考えている。私自身も競争しない生き方を支持している。競争を前提にした努力こそ、不快な努力だ。
心のうちの向上心
努力しないことの難しさは他にも存在する。人が根本的に持っている”向上心”というものは変えようがない。「今よりも現状を良くしたい」「数年先はこんな姿でありたい」などなど。内なる向上心というのはまずはぼんやりとしていることが多いと思う。朝から晩までゲームをしていると、「こんなことをしてて良いのかな」と少し焦ってしまう。それが正に内なる向上心だと考えている。
こうした場合には、「努力しない方がきっと幸せだから、何もしないでおこう」と、自分に言い聞かせる方が大変だ。したくもない努力させられるのもも不快だが、努力したくなったのに、わざわざしないのも不快だ。努力して結果につながるかどうかは別として、チャレンジしたいことや、何か目指したい方向があるのに、それに従わないのは不自然なことだ。
競争からではなく、未来や過去との自分の比較から努力したいと思ったならば、それを行動に移す方が快適だし、自然だ。
行動に移して、実はそんなにやりたいことではなかったということもある。だが、それはそれで問題はない。実はやりたくなかったということがわかるからだ。そうやって行動とフィードバックを繰り返すことで、自分自身の生き方ややりたいことへの解像度が上がっていく。心の内面から形成されたやりたいことや目標はなかなか崩れることがないし、頑張ろうと思っていなくても、自然に努力してしまう。こうなってくると、努力というものはなかなか楽しいものだ。