ナイモノネダリ・・・・
所詮、個人の事はその個人しかわからない。SF映画にあるような、空中ディスプレイ的なものが後頭部付近に展開されていて、その人が持つ意識や正直な気持ちが可視的に見えれば別の話だが。
その人がどんな気持ちで物事を考え、何に心から喜び、何に悲しみ傷つくか、その衝撃や度合いはこれまでの自分の経験則や予備知識を駆使して想像することしかできない。
このことを踏まえた上で、今回彼が彼なりの苦慮熟慮を重ねて下したはずの決断が、社会構成の大多数が暮らす低層付近の感覚で言えば、やはり“羨ましい”という気持ちがどうしてもトップに躍り出る。
“自由な暮らしがしてみたい” おそらく誰もが望む理想の生き方だと思う。それができたならどんなに幸せだろう。怠けたいとか迷惑顧みず好き勝手にやりたいとかではなく、ただ純粋に思うがままを生きていく。究極のご褒美だと思う。当然、そうできてしまう、またはそうせざるを得なかったまでの苦労や苦痛、悩みや重圧は凡人には想像もつかないほどのものだったろうと思う。それでもやはり、それができるのは羨ましい。
羨むもう一つの要因は、“また戻ってこれる”ということにも尽きる。このアドバンテージは大きい。通常、一度何かを捨てる時、職、所属、社会的立場、家庭的立場、どれを取っても二度と戻ってこないと考える。
人々の生活は、上を見ても下を見てもキリがない。身の丈の生活で十分だと思う節は多々あり、その度に現状の幸せをありがたく思ったりもする。ただ、多くの人はその幸せを維持するために本当にやりたいことや、欲しいもの、好きなことに費やす時間をかなり犠牲にしているのも事実。
何もかもを失う、というよりは、何もかもを捨て去り、それと引き換えに得る自由があるのなら、いっそそっちへ行ってしまおうかと思う時は必ずある。ただ、その後のことへの不安、今ある自分を取り巻く環境への悪影響などを考えると、どうかすると自暴自棄とも評されてしまう自由への扉の開門行為を思い留まらせているように思う。
このご時世にあっても、ほとんどの人が週5日制で働けているわけではない状況で、純粋に好きな事、やりたくてしょうがない事が仕事になっていて、十分に生計が建てれている人はどのくらいいるだろう。逆にやりたくもないことを日々我慢して、その日のご飯のためにやらざるを得ない人はどのくらいいるだろう。
「どの道も所詮は自分が選んだ道。誰もそうなってくれと頼んだ覚えはない。」
そう言われてしまえば元も子もない話だが、自分が今、生活のためにやっている仕事が面白くてしょうがない時期があっただろうか・・・・。
あった気もする。そう考えると、今自分にある“面白くない”とか、“くだらない”、“誰の役に立っているのかわからない”というのは、ただの季節的な流行り病なだけのことなのだろうか。
今やたらと推進されている働き方改革。残業代や残業時間がどうとか問題もあるだろうが、ふと思ったのが、『インターバル制度』ってできないかということ。
話題の彼は世間の脚光を20年浴び続け、第一線で走り続けた上での“休憩状態”。これが一般企業にも適用されたら、また少し日本の労働環境は変わるかもしれない。
例えば企業に入社して5年、10年というスパンで一度、1年間程度のお休みがもらえる制度。これを望むか望まないかは労働者に取捨権利があり、そのインターバル期間中、企業は賃金を支払う義務を負い、それを理由に職位や待遇を降下させたりすることは禁止し、本人の希望をもって定められた期間後復職できるものとすること。ただし、インターバル期間中の当該社員の給与について、その90%は国が負担すること。
素晴らしい。これなら馬鹿みたいに税金ばかり上げ続ける政府の風当たりも少し弱まるかも知れないし、高ストレス社会でくたびれてしまう生産年齢世代も、経済活動を加速させるかも知れない。
夢を見過ぎているのだろうか・・・・。