イブの夜に


ヒールの高い靴で歩く気力を何とか奮い起こして、エミはエレベーターから降りて廊下を歩いた。シミだらけのカーペットもすぐギシギシいうベッドもエミの仕事場のようなものだ。

どうか、変な人じゃありませんように。
部屋のドアをノックすると、生真面目そうな男が少しだけドアを開け、エミを上から下まで眺めた。

「ババアかよ」
投げつけられた言葉だけが廊下に残されて、エミは閉ざされたドアに目を向けた。
エミの仕事に定年はないが、客が定年を決めているかもしれない。エミを指名してくるのは数少ない常連で凝ったプレイにもエミが応じてくれることを知っているからだった。でも、それもこの間久しぶりに指名が来たばかりだから、あと数ヶ月は見込めない。

近くの公園のブランコに座って、エミは携帯の履歴からママの電話を呼び出した。「別の女の子回す、エミは戻って。まあ、戻って来たくなかったら、それでもいいけ…」

携帯電話とヒールを放り出し、エミはブランコをこぎ出した。
携帯電話はブランコの柵に当たると音を立てて砂利の上に落ちた。

もうやだ、ヤダヤダヤダヤダヤダ。
最初は小声で呟いていただけだったはずが、大声でわめく声にエミは驚いた。
こんな毎日に慣れていたつもりが、ただ疲れていただけだったことに気づいたからだ。

ミニスカートのコスチュームも赤いピンヒールもエミに似合わなくなってから、さらに5年が過ぎていた。家を出てから18年が過ぎたが、エミがやっていることは18年前とさほど変わらない。変わったのは手にする金の額と相手の男の表情だった。

大体、12月のこの時期にデリヘル頼むような男がクリスマスも何もあるもんか。ざけんなよ。さみぃんだよ。サンタのコスチュームは洗濯したら二度と着られなくなりそうなくらい薄い。あと10日もこれを着て客のとこに行けってか?

「サンタさん。サンタさん、もう、来ちゃったの?」
目を向けると、汚れたトレーナーを着た男の子が立っていた。男の子は不思議な顔をしたままエミを見つめた。「サンタっておじいさんじゃなくて、おばさんだったんだね。握手してもらってもいい?」

「ガキのくせに夜中に外でウロウロすんな、帰れ」エミは脅すような声で追い払った。こんなしみったれた世界にガキは来ちゃダメだ。汚れたトレーナーはぶかぶかしていて、小学校にも通っていないような年頃にも見えた。
「ねえ、握手して。握手。こんばんは、僕はね、ニモっていうんだ」
「魚じゃあるまいし」
「あ、知ってる?ニモが好きだからつけたんだって。ニモってママを探して旅をするんだよ」
「握手はする。でも、ベラベラしゃべってないで帰んな。ママもパパも心配するし、クリスマスにプレゼントも持って行ってやらないよ」

ニモは急に大人びた表情で顔を向けた。「サンタさん、ママもパパも家にいないし、今までもプレゼントなんかもらってないじゃない。だから、プレゼントいらないから、もう少しだけ遊んで、お話して、ね?お願い」
ニモはまっすぐエミの顔を見た。エミは顎で隣のブランコを指した。

「学校は?」「来年から」
「保育園は?」「行ってないよ。ずっと一人で家にいる時間ばっかりで飽きちゃったんだ」
「パパは?」「死んじゃったってママが言ってた。僕、覚えてないんだ」「ママは?」「パンとジュースとお菓子たくさん買って家に来て、すぐ出かけて行っちゃうんだ。たまにお家で一緒にいることもあるけど」

エミはニモの顔を見ているうちに、数年前に産んですぐに他人に渡した子供の顔を思い出そうとしていた。何回も今まで思い出そうとしているのに、何を着ていたかは覚えているのに、肝心の顔は今日もボヤけたままだった。父親が誰かもわからない子どもの顔を見て、気持ち悪くなったことだけしか記憶がなかった。

あの子とこの子とどっちが幸せなんだろ?

今頃どうしてるんだろ?

「とにかく、帰んなさい。こんな子どもの起きてる時間じゃない」
「いやだ」
「送ってってあげるから」
「ダメだよ。ダメ、帰っちゃダメなんだ」
エミは強情な唇を見つめていた。ニモの足元にぽたん、ぽたんと音がした。
「ママとケンカしたの?」
「ううん。ママ、僕がいると帰ってこないから。お家帰りたいってママだって思うでしょ?でも、僕がいたらママは帰ってこないから。ママがかわいそうだもん」

ニモはブランコから降りると、もう一度エミの顔を見た。
「サンタさんだって、いつも、一人でしょ?かわいそうなのはいっしょだよ」

ニモは呆然とするエミの手を引くと、すべり台の中に入っていった。
「ここは少しあったかいんだよ。サンタさんもおいで」

エミの座る場所の砂を払うと、ニモはエミに座るよう言った。エミが座ると満足そうにニモも腰を下ろした。
「サンタさん、僕は思い出せないんだ。きっとママに嫌われるようなことしちゃったはずなんだけど、それなのに思い出せないんだ。サンタさんなら見てた?」
「ニモは悪いことしてないんじゃないの?」
「だけどね、僕のこと嫌だからママは帰ってこないんでしょ」
「ママは…ママは」

ママは他のことに夢中だから帰ってこないんだよって言って、この子の毎日が楽しくなるわけじゃあるまいし。
「ママは誰にも言えないような、すごく大事なお仕事があるんじゃないかな。そうじゃなかったらニモのこと、家に置いたりしないもの」
「僕にも言えない?」「うん」
「ねえ、ニモ、もしかしたら、ニモのママもサンタなんじゃない?」
「え?!」
「サンタは本当は何人もいるんだよ。だから…」

あまりにもキラキラしているニモの顔を見て、エミは胸がグッと痛くなった。
結局の話、私がこの子の笑顔が見たくて適当なこと言ってるだけじゃない!

「じゃ、ぼく、クリスマスまで頑張る」
「ニモ、ねえ」
「クリスマスまでサンタさんは大変だもんね」
「ニモ」
「ねえ、サンタさん。僕のママの名前はね、桃江っていうんだよ。もしも、どこかであったら、ニモはいい子で待ってるよって伝えてくれる?あと、ニモは…僕は…ママのこと大好きなんだって」
エミはニモを抱き寄せた。ニモは想像していたよりもさらに痩せていた。
「ニモ、いい子ね、ニモ。じゃ、クリスマスまで私がまた会いに来るよ」
ニモはエミにしがみついて、「大変なのにごめんね。サンタさんごめんね」とお腹のあたりでもごもごと言った。

*****

それから10日間。

ニモは、まったくニモは本当に1人だった。待機事務所からニモのアパートはすぐのところにあった。部屋はびっくりするくらい乱雑で、食べ物の袋が散乱していた。
私が大きなゴミ袋をいくつもいくつもまとめていると、ニモは「プレゼントみたい」と笑った。ニモを風呂に入れ、洗濯をし、作ってきた弁当を食べさせた。
最初の夜こそ母親が帰ってきたらどんな顔をするかと思ったが、結局夜に母親が姿を見せることはなかった。でも、2日おきに配達のようにパンやお菓子の袋がテーブルに載っていることから、少なくとも誰かが食料を調達しているようだった。でも、綺麗になった部屋や部屋の中に干された洗濯物について調達した人物がどのように考えているのかはわからないままだった。

クリスマスになったらママが帰ってくるとニモは楽しみにしていた。
私のどうしようもないデタラメのせいでニモを傷つけることになるのはわかっていた。
私自身もそろそろ金が尽きてきそうだった。このままだと、家賃がまたも払えなくなる。今度滞納したら出て行ってもらいますからねと言われたのはつい先月のことだ。色々ヤキが回ってる。
「ニモ、今日の夜のことなんだけど…」
ニモは俯いたまま、小声で言った。
「サンタさん、今まで今日の夜の準備で忙しいのに来てくれてたでしょ。ありがとう。今夜はたいへんだもんね。ボク、ひとりでも大丈夫だよ。ずっと一人だったからさ」
ニモは顔を上げてニコッと笑った。

「行ってらっしゃい」

私は髪を黒く染めた。それから、タンスの奥にあるスーツを引っ張り出し、近所のスーパーに電話をして、面接に行った。
35歳はスーパーの中では寧ろ若い方らしく、店長は遠慮なくジロジロと私の顔を見ると最後に「で、いつから働けるの?今夜は?」と肩に手を置いて尋ねた。
「今日は…子どもがいるので、明日からでお願いします。」
「ま、今日からっていうのも予定があるだろうから、明日からでいいよ」いつも見かけるエプロンを渡され、必要書類を告げられ、あっけなく私のパートは決まった。
割に合わないと思っていた仕事だったのに、指名がなくなっていた私にはいつの間にかレジ打ちが悪くない条件になっていたことに面接に来て初めて気がついた。

今日は、今日はニモのところにプレゼントを届けてやらなくちゃ。

昨日秘密で鍵を開けていた窓から私はこっそりニモが寝ている部屋に入った。
ニモは布団の中でうずくまるように寝ていた。枕元にニモのサイズにちょうど良さそうなトレーナーとミニカーを置くと、私はニモを抱きしめるようにして眠った。
ずっとこんな時間が続けばいいと思いながら。

ニモは次の日には消えていた。
目覚めた私の枕元にサンタの絵を置いていったので、幻ではなかったと思う。でも、部屋にあったはずのテレビも冷蔵庫も電子レンジもなくなっていた。サンタの絵のとなりには女文字で「お世話になりました」と書いてあった。

誘拐騒ぎや虐待のニュースが出るたび、私は桃江という文字やニモという名前を探した。でも大概その手のニュースの子どもたちは個人情報のカーテンの向こうにぼんやりとしか姿を見せなかった。

私は会ったこともない桃江に嫉妬していたかもしれない。そして、彼女もまた、会ったこともない私に警戒したのかもしれない。考えてみれば当たり前ではあるけれど。

ひとりの生活が静かにまた始まった。ついでに言えば、バタバタしているうちに年も明けた。
スーパーで働き、夜に家で残った消費期限の切れた弁当をツマミに酒を飲んで眠る暮らしになった。大した稼ぎではないし、男の舐め回すような視線ともピンヒールを履く生活ともすっかり縁遠くなった。
乳児院にいた娘を引き取ると仕事の他に育児で精一杯の時間が続いた。

それでも。クリスマスが近づき町がカラフルに彩られると、
やせっぽちのニモは、私に穏やかな暮らしを残したサンタは、どこに行ったのだろうかと思い出すのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?