はじまりの山(富士山と私)

201X年8月1日未明 富士山 標高3400m付近

「はぁ…はぁ」
浅い呼吸を何度も繰り返す。登り始めてからどのくらい経っただろう、時計は防寒ジャケットの下に隠れてすぐに確認できない。息が苦しい。
時間を見るのは諦めてまた重い足取りを一歩進める。砂礫の坂道に踏み出した足はジャリ…と音を立てて滑る。たまらず空を仰ぐと、吸い込まれそうな闇に、誰かが出鱈目にぶちまけたような星が広がっていた。空と言うより、天だと思った。

さかのぼること2ヶ月前
誰もが乗り越えてきたような、しかし自分にとってはなかなか大変だった社会人1年目をなんとか乗り切った次の年の初夏。
余裕ができるとやりたいことが見えてくる。大体いつも好奇心に抗えない私は素直に、後先考えず、思ったままの気持ちをSNSのタイムラインに放流した。
「富士山ってどうやったら登れるんだろう…?
やっぱり事前に低い山とかで練習した方がいいのかな?」
この投稿を見たアウトドアな人が都合良く話を進めてくれるなんて展開は期待していなかった、期待していなかったのだが高校時代の友人と久しぶりに会った週末、開口一番
「投稿見たよ!私小学校の時登ったことあるし、行ける行ける!行こうよ富士山!」

あれ?
もしかして関東生まれ関東育ち、時々見えると何故かテンションが上がってしまうあの日本最高峰、嘘みたいに綺麗な台形のてっぺんに立てる?私が?

良く言えば楽天的に、悪く言えば無責任に話はトントン拍子に進んだ。7月31日昼登山開始、吉田ルート7合目の山小屋に一泊してご来光登山。
登山と言えばひょんな理由で雨の高尾山に登ったことがあるくらいの私にとっては未知の世界だった。
生まれて初めてトレッキングシューズを買った。偶然家族が登山用のリュックサックを持っていると言うので、それを借りることにした。自然も体を動かすことも好きだが、運動神経は皆無で筋金入りの寒がりと来ている。本当に私に登れるだろうか。

迎えた当日、霧が立ち込める富士山吉田口5合目にて昼食を取り、高度順応を済ませる。完璧だ。
社会人になってからロクに運動していないひょろOL、6合目に辿り着くまでに息が上がっていたが、眼下の山中湖を目にした瞬間ネガティブな感情はすっ飛んで行った。
自分の目線より下に雲が流れている。
食料と服を担いで身一つで未知の場所を歩いていく。
冒険だ。こんな世界があったのだ。

信じられないくらい空が青いこと。
雲の中だと思った次の瞬間晴れていること。
途中で食べたどら焼きが異様に美味しかったこと。
ものすごい傾斜の岩のように見えても取り付くとすんなり登れてしまうこと。
山小屋の夕食のカレーをこぼすではないかという勢いで完食し、おかわりの手が止まらなかったこと。
横になると胸がドキドキしていることに気付き、標高の高さを実感したこと。

翌0時過ぎ、山小屋を発った我々にいきなりの急登と慣れない暗闇が襲いかかる。
ウェアの調整がうまくできず、出発早々びっしょり汗をかいてしまったのを朧気に覚えている。

コロナ前夏山ハイシーズンの富士山で想像してもらう通り、未明はご来光を山頂で迎えたい人で登山道が埋め尽くされ、つづら折れの道の形が登山者のヘッドライトの明かりではっきり分かるほどであった。

隅田川花火大会にも引けを取らない(隅田川花火大会行ったことないけど)人出の中、タフな友人と息も絶え絶えの私、いつの間にかはぐれてしまい、闇と人混みと星空の中をゾンビのようにヨロヨロと登っていた。

登山道の脇には座り込む人、倒れている人、ヘッドライトで照らすといきなり現れるから怖い。ここどこ?富士山。
登り始めは眼下に煌めいていた街の明かりも気付けば靄の中に紛れていた。急に不安が胸をよぎる。とんでもねぇ所に来てしまった、私本当に帰れるのかな。そして息が苦しい。

何度目か分からない空を見上げた時、地平線の向こうがゾッとするくらい暗い赤に染まっていることに気付いた。いや、地平線ではない。眼下は一面、文字通り雲の海だった。
朝がゆっくりと、音を立てずに近づいてくる。

いつしか9合目を過ぎ、辺りは徐々に明るくなっていく。
警備隊と思しき人たちが登山道を外れないように声かけをしている。あまりに登山者が多いため、渋滞してついに列が止まってしまった。この時点でもう歩き続ける気0だった私、内心ホッとして立ち止まる。休憩気分だ。

8月1日午前4時40分、無風、雲一つ無い晴れ。
一面の雲海から一筋の光が空を貫いた瞬間、思わず「あっ」と声が漏れた。
そこからは速かった。世界が急速に赤く、明瞭に照らされ、目覚めていく。
早く友の元へ向かわなくては。

結論友人はと言うと頂上間近の鳥居の脇でずっと待ってくれていた。感動の再会の瞬間、隣にいた見知らぬお兄さんに「写真撮ってくれませんか?」と水を差されずっこけた思い出。

実はお鉢巡りはしていない。二人とも寒さに震え、へとへとで一刻も早く下山したかったからだ。でも人混みから少し離れた場所で山小屋に持たせてもらった朝ごはんのお弁当を食べた。

すっかり顔を出し切った金色の朝日を浴び、視界いっぱいの青空を見ながら、夢のような信じられない気持ちを噛み締めていた。
ここ、本当に富士山の上なんだなぁ。

下山のことは特に面白くないので割愛する。
富士登山経験者の方なら容易に想像が付くと思うが、普段運動経験のない者が真夏の快晴の中、残りわずかな体力で下って行ったということはつまりそういうことだ(日差しを遮るものがなく、砂利道が延々と続くためこんがり焼かれて足の痛みに泣かされました)

どうやって戻ってこれたのか不思議なくらいだが、座り込み、休憩しながら5合目まで帰ってきた。
体のあちこちが悲鳴を上げ、すぐにでも眠りたいのにさっきこの目に焼き付いた景色が忘れられない。
山梨市街に下るバスに揺られながら、私は次に登る山について調べ始めていた。