大人に関する(頭の中は)未成年の一考察

私、アラフォーなんですよ。
いきなりすみません。どうも、おはこんばんちわ。

で、年齢についてですね。
僕、40歳目前というお話です。40といえば、論語で言えば不惑の年。
不惑とはなんぞやといえば、こんな感じだそうです。

【不惑】ふわく
1.物の考え方などに迷いのないこと。
2.《「論語」為政の「四十にして惑わず」から》40歳のこと。

小学館デジタル大辞泉


……
………
…………
……………ぜっっっっっっっっっっっっっっったい嘘ですよね。

今でも迷いまくってるし、40過ぎても絶対迷うし、なんだったら死ぬ寸前まで迷ってますよ、僕は。
なんだったら而立の年と言われる30だって、一人で生きてる実感なんぞなかったし、当然今だってござんせん。

とまあ、こんな感じで、論語の昔から言われてきたように、人々というのはとかく大人というものを過大評価しがちなところがあると思われます。

しかし、我が身を振り返ってみれば、論語に語られるような立派なオトナなどどこを見ても存在していない。頭ん中は夏休みの小学生のママである。
いや、まあ、小学生は言い過ぎかもしれんけど、せいぜい中学生程度だろう。
今の姿をガキだった自分が見たら、きっと人生に絶望して出家するくらいには傷つくんじゃなかろうかと思う。当時の自分よ、ホントゴメンな。。。

でもね、やっぱりね
周りを見渡してみると、ご立派な大人なんてホント存在しないんですよ。
とりあえず周りを見渡せば、一緒にバカやってた友だち(少ないけど…)は変わらずバカだし、ご立派そうな年上の方もやっぱり中身は中学生(いい意味で)なのだよ。

そして、大事なのはここ。

ご立派そうな年上の方もやっぱり中身は

そう。確かに中身は、特に男なんて、ガキのまんまだけど、そんな存在なのに立派そうな大人は案外たくさんいるのである。もしかしたら僕だって傍から見れば立派な大人なのかもしれない(絶対ないと思うけど)。

だからね、なにが言いたいかというと、立派な大人になるということは立派な大人の皮を被るということなのだと思う。ボディスーツのように。

体裁とか、分別とか、礼儀とか、常識とか、思慮深さだとか、懐の深さだとか、おおよそ世間が大人に求めるであろう所作の諸々を40にもなれば、それを日常的に実践するかはさておき、さすがに知ることはできる。
それを求められる相手や場所に応じて早着替えのように着せ替えることこそがいわゆる”立派な大人”というヤツなんだと、最近思ってきた。

そもそもさ、自分だけの時間とか、気心の知れた仲間とのひとときで体裁とか常識とかに振り回されるなんてつまらんじゃないか。
求められる場で、求められる振る舞いをしていればそれでいいんだと思う。
よしんば、本当に常識が欠けていたとしても、40年間も生きていれば取り繕う所作だって十分に覚えているはずだ。要は気付かれなければいいんだよ。

だから、童心に帰るなんて言葉は間違いも間違いで、それは単純に自分の本性をさらけ出しているだけなんだよね。

かの有名なおもちゃ販売店チェーンの歌だって言ってるじゃないか。

子供でいたい、ずっと◯◯◯ら◯キッズ

◯◯◯ら◯

ってね。
心配しなくても、一生◯◯◯ら◯キッズです。

というわけで、これをどこをどう辿って見つけたのかわからないが、読んでいる若者たちよ。
自分を不甲斐ないと感じたとしても心配はいらん。大人になんて一生なれんから。
大人としていかに誤魔化せばよいかを学んでいくがよい。
ほら、汚い大人の世界はこっちだよ。

というわけで、本日の(心の中は)未成年の主張はここまで。
ご拝読、ありがとうございました。

あ、ちなみに、大人の高等テクとして、あえて公式の場でちょっとだけ本性をさらけ出す場合もあります。
これをすると、うまくいけば『遊び心を忘れないいい男』に曲解してくれる場合があります。
ただし、失敗した場合は痛々しくなるのでご注意を。


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