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ばあちゃんとの思い出

休職して、1日目。
何気なくぼーっとしていたら、ばあちゃんの顔が浮かんできた。

うちのばあちゃん、大正後半生まれ(と、言っていた)で、米農家の家で育ったらしく、お米を大事に頂く習性を持っていました。
「米一粒一粒に神様がいてね・・・」という話を聞かされたり、両親が共働きだったため、ばあちゃんと一緒にいることが多かったです。

私は、生まれつき言語障害で、知的障害はあったものの、世間からの偏見を避けるように、障害者学級に通わせず、みんなと同じ教室で12年間通うように躾けられました。
でも、平成生まれの方には、にわかに信じがたい話になるんですが、昭和の時代は障害者に対する理解だったり、障害者に対する支援とか浸透してない時代でした。
いじめも当然受けたけど、何とか乗り越えて来ました。
そんな事があった私、キツイとか、ツライとか泣きたくなるときは確かにあったけど、ばあちゃんがいたから乗り越えられたかもしれないと思っています。

それは、ばあちゃんが口にしていた言葉です。
「ツライことがあっても、その時受けていた事、それをどうやって解決したかを経験することが大事」「でも、本当にツライことにぶつかって逃げたい時は逃げていいんだよ」と、教わりました。

多分、今が「本当にツラくて逃げている」状態なのかな?と、思っています。
世間からの偏見を気にして、みんなと同じように勉強して、ついていけない授業も受けながら、必死に卒業できるかドキドキだった高校も無事にそつぎょうできて、ホッとしたのは言うまでもなく。

高校卒業を間近に控えたある日、ばあちゃんから私に一言「あんたには小さい頃から辛い思いさせて、ごめんね。上の子(兄がいたんですが)にばかりに気にかけてばかりで、何もしてあげれなかったから、せめて車の免許をとらせてあげたい」と申し訳ないという気持ちが、言葉にも顔の表情からでも出ていました。
確かにみんなに合わせて勉強したり、集団行動はツラくて「なんで、こんなつらい思いしなきゃいけないの?」という気持ちがなかった訳ではありません。
でも、ばあちゃんを憎む気持ちはなかったし、ばあちゃんが両親がいない時はそばにいてくれたから。
私の中では、心強い存在だったから。
高校も無事に卒業に至ったんだと思います。

ばあちゃんが亡くなって、もうすぐ25年経つって時に、「仕事から逃げてごめんね」としか言えないのが、なんとも悔しい限りで・・・。
そんなばあちゃんにも、意外な素顔が・・・!?

それは、また後日。

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