【エッセイ】 恋愛についてくる「ハッピーセット」
毎度のことながら完全持論を述べていきます。
何か楽しみにしていた映画を観ているとしよう。
映画の冒頭、ついに物語の始まりだ。これからどんな展開になっていくのかワクワクするだろう。終盤に向かうまでの内容、ここはかなり大事であり、その映画がどんな内容なのかを見せてくれている。ラストシーンに向かうにつれ、次はどうなる?と気になって気になって気持ちが高まってくる。そして映画のラストを観た瞬間に気持ちは最高潮に達する。帰りには「あーすっごい面白かった!」と感動しながら帰るわけだ。
【映画の途中で寝てしまって大事な中身がわからないけど、ラストシーンだけ観た。】
こうなった場合、その映画は面白かったと果たして言えるのだろうか。
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恋愛をした時に必ずハッピーセットとして付いてくるものがある。それは「セックス」だ。そりゃ好きな人とは混じり合いたい、絡み合いたいだろうが、自分本意になっていないだろうか。
自分本意とは「相手がノリ気ではないのに求めてしまう」または「自分主体のセックスをしている」というもののことを言いたい。
一番気持ちが最高潮になるセックスとは、お互いが足りぬ足りぬと貪るように愛し合うセックスを行うことだ。だが実はこれが難しい。
なぜなら男とは身体(主に男性器)の気持ち良さを求めるが、女性は脳でセックスしているからだ。
男性 = 身体的な気持ち良さ。
女性 = 脳的な気持ち良さ。
この差は大きい。
身体的な気持ち良さは愛撫があれば得られるが、脳で感じる気持ち良さとは愛撫だけでは得られない。気持ちや心の通わせ合いが大変なほどに必要になるそうだ。僕は男なので脳でセックスは出来ないから分からないが、そう考えた時に大事なのは「女性主体のセックス」であると結論付ける。
そりゃ若い頃は「あぁ〜セックス気持ちいいんじゃあ〜^」と男も女も肉体的な快楽を求めていた時期はあっただろうが、性とは先細っていくものなのだ。
要するに肉体的な快楽だけでは満足しなくなる。肉体的な快楽だけが欲しいなら、別に誰でも良い。なんなら人ではなく玩具でも快楽は得られるわけだ。だが、なぜ恋人とするのか。
好きな相手とするからこそ、快楽の先があるからだ。
男性が興奮を得られる条件として、相手を愛おしく思う気持ちがある。彼女を可愛い、好き、愛していると思えば思うほど興奮度は高まる。そして女性は男性から愛の言葉を囁かれれば囁かれるほど脳に刺激があり、快楽の先へと進む。
・・・
では冒頭の映画の話に戻る。
【映画の途中で寝てしまって大事な中身がわからないけど、ラストシーンだけ観た。】
これはつまり、キスしたあとに簡単に愛撫をしたらすぐに挿入したという事だ。
映画の冒頭、物語の始まりとはキスやフェザータッチのことを言いたい。そこから愛を囁きつつ、互いの気持ちを高め合うわけだ。この互いの気持ちを高め合う行為をすっ飛ばし、挿入したところで、気持ちのいいセックスは出来るだろうか?否、出来ない。
大事なのは映画の中身であり、映画の始まりと終わりではないのだ。
相手のことを知りたいと徐々に、そしてかつ大胆に求め始め出す。そして互いの気持ちが最高潮になった時にセックスが終わるわけで、終わったあとは「あーすっごい気持ちよかった!」と思いながら抱きしめ合うのだ。
一つ一つが大切なプロセスであり、一つ一つに意味がある。だからこそ男性は相手をどれだけ思いやった上でセックスが出来るかが大事だ。
女性が最高潮を迎えるセックスとは、並行して男性も最高潮に達する事が出来るのだ。
簡単なまとめ
・映画は寝るな!中身を見ろ!
世の中の恋人が、満足できるようになりますように。
・・・え?僕?セックス?苦手だけど何か?(腰振るの疲れんねん。)
てかこれ週末に投稿しようと思っていたのに、やってしまった。
おしまいっ