クリスチャンとして生きるということ⑤
〜どうせ死ぬんだから、という生き方をしない〜
神さまがいる場合といない場合、聖書の希望がある場合とそうでない場合では、生きる目的・意味合いが大きく変わってくることは既にお解りでしょうか?😊
清く、正しく、美しく、どんなに真面目に生きてもたかだか100年、多くの善を施しても悪い人と同じだけ生きて死ぬだけの人生であれば、善いことをするのに何の意味があるのか?と考える人もいることでしょう。(ヨブ14:1,2)
アサフという人も絶望を感じ詩編73編でこう述べました。
3-5「私は高慢な人をねたましく思った。 悪人が平和でいるのを見た。その人たちに死の痛みはなく, 体は健康である。他の人たちのように思い悩むことも, 苦しむこともない。」
12,13「こうした悪人は気楽に暮らしている。 自分の資産を増やしている。私が清い心を保とうが, 手を洗って潔白でいようが無駄なのだ。」
しかしアサフは神の存在を知っていたので後でこう言うことができました↓
23,24「しかし今は,絶えずあなたと共にいる。 あなたは右手をつかんでくださった。あなたは助言して導いてくださり, そうして私が栄光を受けるようにしてくださる。」
神さまは、人や社会が見過ごすような善行もチェックして評価しておられます。そしてそういう善い特質を持っている人をご自分の友とし、永遠に生きられるようにしてあげたい、と思っています😊(詩編72:7)
…そう考えると、多くの人が陥りがちな、今が楽しければ良い、『食べたり飲んだりしよう。明日には死ぬのだから🍻🍢』(イザヤ22:13)
という刹那的な生き方もしないようになる、ということもお解りでしょうか?(仲間との楽しい食事がだめなのではなく、死ぬまでにできるだけ楽しめ!という精神態度のこと)
もしそれだと、永遠の命を約束してくださっている神さまを無視した生き方になってしまいます😕
聖書が飲み過ぎ、浮かれ騒ぎを非としているのも、そのような理由があるからです↓
「かつて皆さんは,恥知らずな行い,激しい欲情,飲み過ぎ,ばか騒ぎ,飲み比べ,忌まわしい偶像崇拝にふけっていましたが,世の人々の好むことを行うのはもう十分です。」(ペテロ第一4:3)
そうではなく、クリスチャンはいつでも神さまの将来の約束を見据えて冷静でいる必要があります😉(ルカ12:40)神を知らない人のように、仕事をして、食べて飲んでまた働いての繰り返し🔁だけにはならないように注意しましょう。むしろ聖書をよく学び、なにが神さまのご意志か見分ける必要があるのです😊📖↓
「この事物の体制に合わせて形作られるのをやめなさい。むしろ,思いを作り直すことによって自分を変革しなさい。それは,神の善にして受け入れられる完全なご意志を自らわきまえ知るためです。」(ローマ12:2)
仲間や仕事での付き合いで、浮かれ騒ぐだけの空気になることはありがちですが、ぜひこれからは少し冷静になって、俯瞰して見るようにしてくださいね😎
※挙げられている聖句の前後も読み、分脈を知るとより理解が深まります
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