見出し画像

好きなことを仕事にすべきか。


好きなことを仕事にすべきか。

YouTubeが「好きなことで、生きていく」というキャンペーンをしていた。(この頃のHIKAKINさんは痩せている)好きなことを仕事にしている人はなんだか輝いている。「それに比べて私なんて毎日同じ作業の繰り返し。このままでいいのだろうか」と悩んでしまう人もいたのではないでしょうか。急に発信しなきゃいけない感じになった人も多いんじゃないかなと思います。私もnoteを始めたこともありましたが、100万回挫折しました。自分は続かない、ダメだなぁと思うこともありました。

先に言っておきますが、正解はありません。(あと長いです)好きなことを仕事にしてもいいし、好きじゃないことを仕事にしてもいい。好きなことを仕事にしていたら、好きかどうかわからなくなってきたりする。好きじゃない仕事をしていたはずなのに好きになっていく。

人間のココロはコロコロ入れ替わっていて、ずいぶんとええ加減なものです。できるビジネスマン風に言うと、「好きなこと」はボラティリティ(変動性)が高いものです。(逆にカタカナ用語使いまくる人はできなさそう)好きだけど稼げないとか、稼げるけど好きじゃないも極端すぎて嫌ですよね。

だとすればこのように問いを変えてみると、何か見えてくるのではないかと思いました。

「好き」と「仕事」をどのようなバランスを保てばいいのか。

この問いを考える上で、少し補助線を借りてみます。

僕らの人生を真っ二つにすると、「働くこと」と「愛すること」が現れる。実はこれ、深層心理学者フロイトの言葉です。(中略)なんらかの目的があって、それを達成するために「する」。これが「働くこと」。これに対して、「愛すること」の目的は「愛すること」そのものにあります。(中略)「働くこと」と「愛すること」は、混ぜるな危険。これらの二つの人生は混ざってしまうと、よからぬことが起きがちです。

『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない。』東畑開人

この引用の「愛すること」は「好き」と互換として捉えてください。好きな人たちといることが楽しい。好きなことをしているのが楽しい。嫌いな人たちと、嫌いなことしているよりかはなんだか成果は出そうです。

でも引用では混ぜるな危険と、洗剤のパッケージみたいなこと言われます。ちなみに「まぜるな危険」とは、「酸性」と「塩素系」の洗剤を混ぜるなということであり、混ぜてしまうと有毒な塩素ガスが発生するらしいです。私はやったことありません。

でも私は洗剤は混ぜたことないですが、「愛すること」と「働くこと」を混ぜたことがあります。好きな人といて、好きなことをしつつ、それが仕事になっている状態は、いま振り返ってみると、とてもしんどかったなぁと思います。

「働くこと」ということは、成果を出すためにしんどいことや嫌なこともあります。できないこともできるようになる必要があります。何回試行錯誤しても失敗し続けます。他人も要らないと言われることもあります。

そこに「愛すること」が目的になってしまうと、成果に対して甘くなりがちです。プライベートな事情や個人的な感情やモチベーションの問題で「できない理由」を探し続ける人がいました。私自身、辞めてほしくもないので強くフィードバックできませんでした。

誤解なきように言うと、「愛すること」の土台の上に「働くこと」は成り立っています。だからプライベートの事情は優先順位を上げるべきですし、基本的に尊重はしています。

その前提で、「愛すること」に費やす時間はお金は、「働くこと」によって生まれています。「働くこと」を疎かににしてしまうと、「愛すること」は維持できません。混ぜてしまうと、境界線が曖昧になってしまって相反する関係になりがちです。

両者を相反する関係ではなく、運命共同体な関係でありたい。

だから私はslackのワークスペースを物理的に「愛すること(コミュニティ)」と「働くこと(会社)」に分けました。

結論から言うと、めちゃくちゃラクになりました。分けることによって、コミュニティでは愛することに集中でき、会社では仕事に集中することができます。分けてみて初めて仕事に集中できていなかったんだなということが分かりました。

また自分が好きなことはコミュニティで実現できているので、仕事は仕事として他者の課題を解決することだと割り切ることでコトに専念することができます。

どちらかではなく、どちらも大事にする。今までワークアズライフ(仕事とプライベートを一体化)でしたが、一周してワークライフバランスになっています。私のライフ部分は創作によって成り立っているので、ワークソウサクバランスと呼んでいます。

それでも好きなことで生きていくなら。

冒頭で申し上げたとおり、正解はありません。「好き」と「仕事」を分けることもできるし、「好き」が「仕事」になることだって全然あり得ると思います。「好き」なことすることが、仕事に繋がらなくて無意味だとも思わない。全然、矛盾しない感覚。

とはいえ、時間軸の話でいきなり「仕事」に結びつくってものでもないのかもしれません。近視眼的にみると、無意味だってなります。焦って「好き」を「仕事」にしようとしなくてもいいし、無理矢理「仕事」に「好き」をねじ込まなくてもいい。

ただ「好き」な創作を毎日続けていたら、あるとき誰かが感動してくれて、悩みを相談されて、結果的に仕事になるという順番なんだと思います。仕事を得るために「好き風の創作」を続けていても続かないのではないでしょうか。うんとももすんとも言わない期間だってあるし。

創作自体は無意味ですが、感じたり、考えることを習慣化することで、誰かの彩りを発見したり理解できるようになる。それって常に意味だけを頭で考えて、今を生きていない状態よりも地に足がついているし、仕事にも生きると思うのです。

何も特別なことが起こらない日常の中で感覚を開いてゆくことは、実は自分の世界に色彩を与えることであり、さらにほかの誰かの彩りを発見することにもつながってゆく。それが日々の暮らしを豊かな時間にするというで、同時にその時間は何ものにも侵されない普遍的な価値を持つものになる。

永井宏『愉快のしるし』

今すぐに答えが出ないからこそ、今の自分ができることは、手を動かすことくらいしか解決策はないんだと思います。

日本語/恭平語
好きなものがない/手を動かしてない
私には才能がない/手を動かしてない
自分はダメな人間/手を動かしてない
退屈だ/手を動かしてない
死にたい/手を動かしてない

人生すべての解決法=手を動かすw

『よみぐすり』坂口恭平

結論、仕事は仕事し続けて、創作は創作し続ける。そうすると、自然と創作と仕事がくっついたり、離れたりするのではないでしょうか。離れたとしても気にしない。だって手を動した後、他人がどう受け取るかは他人次第で自力を越えたもので、そこはあまり気にしても仕方がないと思います。逆に周りを気にしすぎて「他者と比べて才能がない」「まだ出すのは恥ずかしい」と言いながら、手を動かすことを辞めてしまう方がもったいないんじゃないかなぁと思います。

みなさま、お手元をご覧ください。
手、動いてます?

もしよかったらみんなで手を動かしましょう。創作を楽しむHuman Horse Clubの記事はこちらから。