無目的かつ無意味でいる喜び
大竹伸朗のスクラップ。森山大道のスナップショット。横尾忠則の絵画。
彼の肉体は吸い込まれていく。言葉を超えた何かに、ムラムラと創作欲を掻き立てられる。
どの作品も、何か明確な目的や意味があって創られたわけではない。先に手が動いてしまっていて、意識は何を創っているのかわからない。
この文章もまた無目的かつ無意味だ。誰かに評価されるために書いているわけではない。ただ書きたいから書いていて、それ以上でもそれ以下でもない。
自分の考えを書いているわけではない。自分の肉体で起きていることをただ描写しているだけだ。ただ創作している中で、自己と対話して気づくことがある。それが純粋に喜びなのだ。
人生は無目的かつ無意味だというと、冷めた目で斜に構えているように見える。でも実際に無目的かつ無意味な世界にいる人たちは、純粋に生を味わっている。子どもの頃に遊んでいた感覚に近い。
一方で目的や意味を全く否定しているわけでもない。仕事は目的や意味があるものだ。日常は無意味かつ無目的な世界で楽しんでいるからこそ、むしろ仕事は仕事として純粋に目的や意味に向かって取り組むことはできる。
これが目的や意味の世界だけで、意味あることだけを発信していて、目的を達成することに自分の価値を置いてしまうと息苦しくなるのではないだろうか。
実際、私のもとに「成果が出せない自分には価値がない」といって悩む人たちがくる。メンタルを病んでしまう人もいる。
仕事はゲーム的である。ゲームは明確に目的があり、役割を演じながら取り組む。失敗してもまたコンテニューできる。資産は奪われるかもしれないけど、経験は奪われることはない。
確かにゲームの世界で成果が出せなかったら、そのゲームの中では価値がないのかもしれない。でもそれはあなた自身が価値がないかというと全然違う。
ゲームをやめて、無意味かつ無目的な世界で創作する。そこは価値があるとかないとか特に存在しない世界だ。彼は別に価値がなくても平気である。それが悩みになることはない。でもまぁ価値があるってことにしておけばいい。それは決めの問題なので。
また気が向いたら違うパーパス(目的)のゲームをしたらいい。そこでは価値を発揮できるかもしれない。パーパス(目的)は人工的かつ擬似的なものに設定されたものにすぎない。ゲームの設定(環境)が変われば、急に評価されることもある。(逆もしかりだけど)
そう考えると随分とラクになる人がいるではないだろうか。無目的かつ無意味に手を動かそう。