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好きになってくれなかった人。


今でこそ、わたしにとってバレンタインとは家族にチョコレートをあげるだけの平和な日になったが、かつては戦闘モードで迎える日であった。今日はちょっと書くのも恥ずかしい、わたしのダサい昔の恋の話をしてみる。

子どもの頃からわたしはいつも誰かに恋をしていて、小、中、高、大と入学するたびに、「運命の人を見つけてしまったかもしれない!」と一人で、時には仲のいい友人を巻き込んで大騒ぎしていた。モテたわけではないけど、人を好きになることへの意欲だけはとても高かったと思う。恋愛は毎週月曜23時からの「あいのり」を履修して学んだ。

高校時代に好きになった同級生への気持ちは、特に強烈だった。どうかこれが運命であってほしいと、祈ったり願ったり小顔体操をしたりポエミーな日記を大量に生み出したりした(恋はなぜあんなにも日記を捗らせるのだろう)。1、2年生の頃はその人を振り向かせることがわたしの人生の最大テーマになっていた。もしも今、高校生の頃のわたしに会えるのなら「勉強にもっと集中しろ」と言いたいが、気持ちがコントロールできないのが恋、これが運命だと錯覚してしまうのが恋だということも知っている。

その彼とは一応付き合っていた。正確には付き合ったり別れたりを二度ほど繰り返した。だけど彼の気持ちはよくわからなくて、そのよくわからないことをわたしは「アンニュイなところがいい」だなんてポジティブに解釈してますますのめり込んだ。どうかしていた。


最後にひどい一言とともにふられてからも彼のことはなかなか忘れられなくて、しばらく引きずった。せっかく新しい恋が始まっても、完全には消し切ることができずに悩んだ。その後、夫と出会ったあたりから、彼のことはどうでもよくなっていった。


あれから長い時が流れて、今になって思うのは、彼はわたしのことをそんなに好きではなかったのだということ。いや、本当は子どもだったわたしもわかっていたのだと思う。彼は、好きになってはくれなかった。好きになろうとしてくれた瞬間はあったかもしれないけれど、彼のそれは恋ではなかった。目を見ればわかったし、何気ない言葉ににじみ出ていた。あれは片思いであり失恋だった。彼の好きな人はわたしではない。わかっていて、でも認めたくなかった。だからいつもつらかった。


わたしの持てる多くのエネルギーを費やしても、好きになってもらうことができなかった人。思うようにならなかった、敗北感ばかりだった恋。今となってはいい思い出です!だなんて言わない。あんなに苦しかった日々を、そんな言葉ひとつで片づけてたまるかと思う。でも、今だから事実を客観的に見つめ直して受け入れることはできる。あの人には、結局好きになってもらえなかった。その大きな痛みは、わたしのことを好きになってくれない人と一緒にいても仕方ないと気づかせてくれた。わたしのことを大事に思ってくれる人(異性に限らず)が誰なのかが感覚的にわかるようになり、そういう人を心から愛そうと思えるようになった。いつだって、手に入らなかったものによってわたしの輪郭は作られていく。


高1のバレンタインの日に、その人にあげたチョコ。「クッキーはすごくおいしかった。チョコケーキはちょっと固めだったけどおいしかった」と感想をもらったけれど、クッキーの方は母が作ったもので、固めのチョコケーキだと言われたそれは、本当は中身が溶けてくるはずのフォンダンショコラのつもりだった。とことんうまくいかない恋だった。


おわり(そのうち非公開にするかも)

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