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自分の写真で好きな写真とそうでもない写真

はじめに

唐突だが、私はYoutubeが大好きだ。

色々見るが、カメラ系では矢沢さん・ふぁらおさん・ゆせふさん・上田家さんを特に信用して拝見させて頂いている。全員大好きだ。

私が所有するNikonのユーザではないので直接的ではないが、考え方や撮影方法や周辺機材まわりで、ゆーとびさん・高橋けいすけさんなどその他大勢のカメラ系Youtuberさんの動画もよく拝見し、参考にさせていただいている。

いつも通り入浴中にいろんな動画を視聴している中で、昨日ふと、高橋さんの動画を見て今の私にとても刺さることがあった。

この動画では写真をうまくしたいなら避けるべき内容(逆に言えばうまくなるには必須のこと)を5つ挙げているが、その一つが「自分の写真を好きかい?」である。「自分の写真を好きになれないと、駄目よ」と。

あぁ、そういうことか、と自分の中で直感的に理解することがあった。

結論から言えば、私は自分で撮った娘の写真は大好きで、自分で撮った自然風景の写真は好きではない。

娘の写真は、もっと良い写真をとるために次々アイディアが浮かび、あらゆるその他作業(仕事含め)が撮影チャンスの機会損失となっている点を除けば悩みはないが、風景写真は、はじめて間もないのに露頭に迷い始めている。

そういうことか、と

もっと順を追って考えをまとめる。

経緯

この一週間、ソロでの撮影から家族との旅行まで、数千枚の写真を撮って現像が渋滞しているのだが、自然風景写真を優先して取り掛かっている最中、祖父母からのプッシュで娘写真の現像に途中からシフトした。要は短い期間に自分の撮った自然風景写真と娘の写真をじっくり見たわけだが、、、

娘を撮った写真は、風景写真の何百倍も良かった。

そもそも本格的なカメラを購入した契機は娘が生まれたことだし、場数が違うのも大きな理由ではある。

だがそれを差し引いても、娘の写真は(自分の中で)非の打ち所がないくらい娘の魅力を引き出せていて、自分でも飾りたいくらい好きだが、ちょっと悔しいくらい、風景写真はそうでもないものだった。好きになれなかった。

この差は何だ?

好きな写真とそうでない写真の差の分析

被写体愛の強さ?

違いとしては、まず歴然とした「被写体愛の強さ」が挙げられる。

これは、単純に父親として娘への愛情が強く働いているためで、一種オートマチックだ。風景に限らず、勝てる被写体は今後一生現れないと確信できるため、「同じ熱量を持つ」は到底不可能だ。(超親ばか)

ではもう少し掘り下げて、娘への愛情があればなぜ写真が良くなるのか。
考えてみるとおかしな話で、直結しないはずだ。

愛情は、良い写真を撮ろうとする検討サイクルの起爆剤?

例えば家族同士で行った旅行の、他のパパママから頂いた我が娘の写真。
ものすごく有り難いし、それはそれでまたいつもとは違った表情をしていて好きだ。

しかし、親というよりカメラおじさんとしての私が
「俺の機材でこの角度から撮ればもっと可愛く撮れたのに…もったいない。俺がもう2人いれば。。」と考えてしまう。

これは多分、単純な「娘への愛情」とは言えない、撮影者としてのエゴだ。
だって本来は大感謝してそれで終わりだろうから。

この例を、私の脳内の背景含めちょっと分解すると、

  1. 被写体への愛が強い

  2. もっと美しく/可愛く撮ってあげたいと思う

  3. もっと美しく/可愛く撮るにはどうすればよいだろう

という思考の流れが、とても強く・高速に・疑問なく行われるため、娘への愛情の強さが良い写真を生み出すことに、実質的に直結しているようだ。

私の娘を撮った他人の写真の大半は、過去の私の検討サイクルにおいて克服した「駄目だった頃の写真」を見ているようで、でもそれは今現在の私のフルスペックを投入すればより際立ったはずの、でも永遠に取り戻せない瞬間を切り取ったもの だ。

よくぞ撮ってくれたと嬉しい反面、どうしても歯がゆい感情が抑えられないのは、そういった背景があるように感じる。

回想:はじめからうまくは撮れなかった

思い返せば、最初はそんなに上手に撮れなかった。

被写体ブレ、手ブレ、ピンボケ、露出不正 など、機材や技量の力不足によって、娘の写真はかなり失敗を重ねてきた。

だがこの点については、下記の通り対応してきた。

  • どうやれば被写体ブレを起こさないで撮れるか?→SS上げる

  • どうやれば手ブレを防げるか?→手ぶれ補正強い機材買う+SS上げる

  • ピンボケを減らすには?→AF機能が強いカメラ・レンズ買う

  • 露出不正はどう対応する?→修行する

あまり時間はかからなかったように感じる(膨大な金は消費したが)。
お陰で今は、走ってようがジャンプしてようが、なんでもゴザレだ。

被写体目線で考えることは重要か?

現状、娘の撮影について最も力を割くのは「気持ちへの配慮」だ。

というのも、娘が本当にかわいく見える瞬間というのは、服や撮影地や機材以上に、心から楽しそうに笑っているかどうか だと気づいたからだ。

外見上かわいいかどうかはは、内面的なものが表層化した結果論でしかない、という考えが、どこの時点からか、私の中の常識になっている。
これは子供だから特にそうかも知れない。メイクとか無いし。

だから、娘の最高にかわいい写真を撮ってやろう!と思う場合、なによりも娘のご機嫌を如何にいい状態で目的地に持っていくか に私は最大の労力を割く。

行った先に、単に映えスポットがあるだけでは子供的に一切楽しくない。
遊園地など遊べる場所があったり、ピクニックを予定していたり、何かお楽しみが待っていなければ、絶景の中に佇む絶望的な表情をした我が子の写真しか撮れない。

快適性も重要だ。移動の車で酔ってしまったりしないように、出発が早朝すぎて眠たくならないように、色々と気をつける必要がある。

自分の準備は15分あれば足りるが、娘が楽しくかつ快適に過ごせるようなプランを立てるには数日かけることもザラだ。場合により、事前にロケハンまでする始末だ。(病的)

撮影するかどうかに関わらず、我が子にいい顔で笑ってほしいために頑張るのは大半のパパママにとっては至極当然の基本動作だが、実はこれって、あらゆる写真撮影において重要なことなのかもしれない。

長々と書いてしまったが、まとめると私は現状、娘の撮影において「被写体がワクワクしているか」「被写体が快適か」といった内面への配慮と準備にほとんどの熱量を割いており、撮影地の美しさや機材は、「ハマればラッキー」くらいに考えているが、それが良い結果を量産出来ている。

人間を相手にするポートレート撮影においては、比較的容易に応用可能だが、自然風景にこの考え方は適応でききるだろうか。。。

今後の宿題:自然風景を被写体目線で考える

自然風景は動物ではないので感情が無い。

こちらから手を加えてご機嫌をとる なんてこともできない。
基本はあるがままの姿を撮ることしかできない。

そんな自然風景がいちばん"かわいい"瞬間とはどんな瞬間だろうか。

まずは、自然風景が表情を変える要素を挙げてみる。

  1. 季節性・状態(新緑、紅葉、開花、枯れ木etc)

  2. 天候(快晴、雨、雪、くもり)

  3. 日光の差し方・時間(朝日、日中、夕日、夜)

  4. 自然現象(靄、霜、露、虹、風etc)

  5. 光の選び方(サイド光、逆光、順光 など光の方向)

  6. 構図

  7. 画角

  8. 現像

  9. オプション(野鳥を入れる、何かしらアイテムを添える など)

上記の要素の組み合わせで、感情を持たない自然風景も表情を変える。
逆に言えば、撮影者の力量でなんとかなるのは半数以下であり、「その時、その場所に赴く」しかない部分がメインとなる。

ではまた別途、それぞれの自然風景が最も「かわいい」瞬間とはどういう要素が合った場合か、を検討してみようと思う。



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