酒鬼薔薇がやった事、もうみんな結構知らない~頭の中の警鐘に従う必要~
私は来月42になるおばさんです。
10個位下の人と談笑していて他意もなく「酒鬼薔薇」という単語を聞くことがあります。それは時に「オウム」だったり「麻原彰晃」だったり「コンコリ事件」だったりします。悪いことの象徴として、笑い話に出てくることがあるような気がします。
そんな時私は「ねえ?実際に酒鬼薔薇が何やったのか知ってるの?」と言葉にしてみると大抵「授業で習っただけ」「あんましらない」と回答を得る。
私もこれらの事件を実際に目にして、体験して、当事者であったわけではありません。
でも同時代を生きたし、当時の報道は、今よりも他人のプライバシーを考えないワイドショーがめちゃくちゃやってたので、知らずとも知ります。リアルタイムのワイドショー含む報道があって、暴露本が出版されて、その主要内容を知ろうとしてなくても常識として知っています。
1997年の酒鬼薔薇事件は15歳になるとしです。気がついたかたもいらっしゃるでしょうか?酒鬼薔薇と私は同学年です。同世代に生きただけでなく、同年生としての、世間の当たり前が一緒だったと思います。
という事で、酒鬼薔薇が逮捕された時、まさか同学年の男の子が犯人とは、驚きを通り越して恐怖を感じました。
酒鬼薔薇が何をしたのかは、書くのもはばかれるので、各自グクってください。客観的に3行でとしてもエグすぎる内容なのですが…。
じゃあ3行だけ。
ある朝中学校の正門に、切り取られた人間の頭部だけが放置される。
その口に挟まれた、酒鬼薔薇聖斗と名乗る犯行声明文が話題になる。
私と同学年の15歳男子が犯人として逮捕される。
今北産業さんに綴りました。
これが、客観的事実です。なんの感情も入れないようにしました。
この事件の猟奇性が、最初の1行だけでも分かってもらえると思います。
2行読めば充分でしょう。
私らと同世代でも「酒鬼薔薇」を笑いとしてネタに使う人は居ますが、少数だし、正直空気の読めない奴、人の痛みの分からない奴だと私は静かに認定してます。
猟奇的な事件は全くなくなるということは確かにないです。札幌の事件もあったばかりだし、内容が明らかになり、報道が進むにつれて、笑いのネタにするのがはばかられるようになったでしょう。
酒鬼薔薇事件も、そうで、リアルタイムの報道を知ってる私たち世代にとっては、内容が明らかになればなるほど、笑いのネタには出来ないのです。
オウムの関連事件もそうだし、綾瀬のコンクリ事件もそうです。
とても、談笑の話題として、適切な単語では無いことを肌で知っています。
でも10歳位の年齢差で、そうではなくなる、各々持ってる情報量がバラバラで、単語だけが独り歩きし、談笑のネタになっている、という場面に複数回遭遇しました。
その度に「実際、酒鬼薔薇事件で何があったか知ってるの?」とか「オウム真理教が何やったか知っててそれ言ってるの?」と口うるさいおばちゃんをするのですが、帰ってくる返答は「社会科の授業でやったくらい」「あんましらない」が基本回答で、この間は心無く「戦争と同じだよ」と言われてとんでもなくビックリしてしまいました。
確かに私は戦時中生きてきたわけではないです。だから、戦中の価値観とか実際には知らないです。でも、何があったのか、知ろうとする試みは継続しているし、人を笑わそうとするネタに「戦争」という単語は不適切だと分かります。
例えば東日本大震災は13年前。体験した人が多く、教訓を得た人も多いですよね。それを人を笑わそうとするネタとして取り上げてはいけないことだと、多くの人の共通認識があると思います。
私に取って「酒鬼薔薇」も「オウム」も「麻原彰晃」も「コンクリ事件」も同じなんです。痛みを伴い犠牲になってしまった人が居る。
リアルタイムを知らない人にとっては「戦争と同じ」教科書の中の出来事なのかも知れません。
でも、戦争だって、多くの人が、現実の痛みを伴い犠牲になっているから、忘れちゃいけないんでしょ?繰り返さないように、努力を続けなきゃいけないわけじゃないですか。
実際になにがあったのか、リアルタイムで実体験しなくても、情報として、知れる限りを知って、なにが問題だったのか、教訓を得ようと、個人としてやってます。
酒鬼薔薇事件についても、オウムの1連の事件についても、コンクリ事件についても一緒です。
自分と同じ感覚を一般常識を持つ日本人が、なぜこのような猟奇的な犯行に及んでしまったのか?それまで、同じ日本という社会の中、一緒に平和に生きてきたはずなのに、なぜ、彼(彼女)、彼ら(彼女ら)、が、そんな猟奇的な事件を引き起こす世界線に行ってしまったのか?被害者になってしまったのか?
私も、まかり間違えば、加害者にも被害者にもなりうると考えながら、生きてるんです。
もう一歩いえば、加害者にも、被害者にもならないようにどう生きていけばいいのか?考えてるんです。関係ないわけじゃない。
なんていうか…。想像力が足らなすぎる。
自分の生まれる前に起こったことだから、詳細を知らなくて当然。戦争と同じで昔なんかあったんでしょ?俺(私)には関係ない事だし。酷いことの象徴として、単語は有名だから「酒鬼薔薇」と、笑いを誘発するために発する。
じゃあその人の発した「酒鬼薔薇」という単語で、私は頭の中に殺されてしまった2人のお子さんの事を思い、心の底から不快な感情になってる。私は酒鬼薔薇が同じ学年だったという事実が忘れられなくて、立ち読みだけど、暴露本も読んでて、お風呂場と屋根裏の描写までおぼえてる。だから心の底から不快になる。
でもそれを伝えるのが共通認識がないと難しいから「酒鬼薔薇が何をしたのか知ってて言ってるの?」という言葉になる。それが精一杯の抵抗なのだ。
それに対して「学校の社会科で習った」「実際にはよく知らない」「戦争と一緒」と言われてしまう落胆である。
じゃあ、私の不快感の元を話そうとすれば、もちろん事件の詳細を説明する必要があり、理解してもらう必要があり、その上で「ひとが不快な気持ちになるから、冗談でもその単語を発しない方がいよ。」まで、説明させてもらわないと、理解を得ることはできない。
多くの人は、おばちゃんの、そんな長話に付き合ってはくれない。相手にとっては歴史の授業のようなつまらない時間であり、複数人でしていた会話なら、会話ストッパーになってしまう。でも、不快感を無視する事は出来ず、スルーするという選択肢もあるのだろうけど、やっぱり嫌で、出来る最大の抵抗が「酒鬼薔薇が何をしたのか知ってるの?」なのだ。今回は酒鬼薔薇だったけど、過去に「麻原彰晃」とか、「オウム」とか、「コンクリ事件」という単語でも同じ思いをした事がある。
事件のあった時に自我のある年代だったか?は、価値観の影響に大きく関わる事だと思うけど、社会科の授業で習うほどの〇〇事件には、殆ど亡くなってる被害者の人がいて、それを悲しく思っているご遺族の方がいる。
私は当事者ではないけれど、被害者にだって、もしかしたら加害者側になってしまう世界線だってあったと思って、別に大声でおかしー!って叫び回るわけじゃないけど、心の記憶には留めて、私は個人として、それを忘れず記憶し、同じ間違いを自分や周りの人が起こさないように心に留めている。
すごく小規模の個人的な事だけど、そういう風に自分の事として、考えられる人が多い方が、加害者を生まないし、より良い社会になると信じてる。
酒鬼薔薇のした、理解できない猟奇的な行為を、理解はできなくとも、記憶として留めて、同じようなことをする人が出てこないように、この両目を使う事は出来ると思う。
もし身の回りで、猫を殺すのか楽しいとか、そういう行為を見聞きすることがあったら(幸いないけど)、ちょっとちょっとストップ!あなたまさか酒鬼薔薇と同じ思考になってない?同じ事しようとしてないよね?それはおかしい行動だからね?と言えるようにはしておこうと思っている。
猫を殺すのは法律上は器物破損でしかないけど、その延長線上に、酒鬼薔薇がいて、酒鬼薔薇に殺された2つの命があって、その2つの命には、もちろん私と同じ痛感があって、現実に痛みがあって苦しみがある。悲しみに包まれるご家族がいる。
昔、川崎に住んでいた頃、使っていたバスの2停留所前の近くのトンネルで通り魔があった。女性が1人亡くなった。警察の捜査は的外れで、あのトンネルを通る人なら、私と同じ沿線のバスに乗っているだろうことが、私はスグ肌感で分かった。あのトンネルまで被害者の女性は駅から歩いたと捜査されてたけど、あんな距離普通に歩かない。私と同じバスに乗って、2つ前の停留所で降りて被害に会ったはずだ。
バス停にはどの時間帯も毎日長蛇の列になっているんだから、駅の改札で聞き込みをするなら、このバスに乗ろうと待っている人に、被害者の当日の服装を伝え、顔写真を見せて、目撃情報を得た方がずっといいと思った。もしかしたら、犯人も同じバスに乗っていたかもしれないと思った。
尻手黒川道路沿いだったんだけど、私はあの道路でしか、車に轢かれたハトを見た事がない。ハトって車に轢かれる生き物じゃなくない?知らんのだけど。どういう因果か同時期に、近辺の尻手黒川道路で、車に轢かれるハトを数回見かけたので、やっぱり私は無意識に酒鬼薔薇を思っていたのだ。
今も住んでる人に悪いけど、私はこの1件で、重い腰を上げて引越しを決意し、川崎の地から離れた。
のちに犯人は捕まったらしい。詳細まで知らないけど、私も遅い時間に同じバスを使っていたし、犯人の逮捕を待つより、土地から離れる方がただの賃貸住みの私にとっては簡単だ。
犯行現場となったトンネルも通った事があったし、1人で歩くと昼間でも薄気味悪い場所だった。
車に轢かれたハトと通り魔事件に直接の関連性があったのか?は知らない。でも酒鬼薔薇事件の詳細を知っているから、もしかしたら、万が一、小動物の殺害を日常的にしてる人が近所にいて、通り魔になったのではないか?、この土地に住み続けるのは危険だ、と私の頭の中の警鐘が鳴ったのだ。
通り魔事件のあった日も、私は同じバスに乗っていた。その日はいつもより帰宅が早くて、9時頃家に着いた。そして翌日通り魔事件を知る。午前零時頃の犯行と聞く。私が普段帰っている時間と一致している。私が被害者だったかも、怖いと思う。車に轢かれたハトを思い出す。しっぽのない野良猫が他の土地より多い気がする…。事件の解決を待つより、後回しにしていた引越しをしてしまおうと思う。2ヶ月後には引っ越した。
今初めて、この通り魔事件についてググッてみたら、半年後にも近くで通り魔の犯行を起こして、そっちの容疑で逮捕されてて、のちに犯行を自供したとの事だった。あの土地を離れて正解だったとやっぱり思う。
頭の中の警鐘は、当たっていたのだと思う。
果たして、酒鬼薔薇事件の詳細を知らなかったら、私の頭の中の警鐘は鳴っていただろうか?
この間マイホームファミリーを読んでいたら、窪が傭兵としての仕事として、事件に巻き込まれてそこから助け出す、より、事件を起こしそうな人間の空気を察知して、予め関わらないように退避することの方が重要だと言っていた。
私は平和ボケした今の日本にいて、それでも猟奇的な事件の内容を一般人として知れる限り知っておく事で、自分を守る、危険から遠ざける、頭の中の警鐘が働いたと思った。今調べながら、通り魔事件の被害者の方には申し訳ないけど、早々に引越し、物理的に離れるというのは、正解だったと思う。
頭の中の警鐘がなんで鳴ったのか、理論立てて考えた事はなかったけど、あー酒鬼薔薇事件の詳細を知っていた事で、その土地で起こっている小動物への違和感が、身の危険を察知することに繋がり、回避する行動になってたんだなと思う。
20年も前の話だけどね。
やっぱり、ケーススタディを積み重ねておくことで、その時理論立てて説明出来なくても、本能は何か感じられるわ。
私のやってる事は間違ってない。
って訳でね、私は、ミステリーとか、猟奇殺人とか全く興味ないですよ。ジャンルとしてはむしろ嫌いなくらいです。ミステリーホラーは敢えては読まないです。怖いことが嫌いなので、触れないようにしてる。人が死ぬ事でなりうる世界観が嫌いなので、ミステリーもホラーもエンタメとしてでも触れない。
でも一般常識として、ケーススタディを蓄積するのは、異常をいち早く察知する為に、必要なことだと、言えます。
「酒鬼薔薇」の犯行内容を知ることで、人間への殺意を他の動物に置き換えて実行する人が居るとケーススタディがあった。結果、近所での通り魔事件を受けて、早々な引越しという回避をしていた。
「ヨガやってみない?」と誘われて行った先が、カルトで、いつの間にか危険思想のある集団の一員になってしまう可能性がある事を、オウム真理教のした事を学ぶ事で、ケーススタディとして知っていた。だから、マルチの勧誘を受けても毅然として断る事ができた。個人の欲が、思いも寄らない大きな力になり得る事を知っていたので、宗教の勧誘も断ってこれた。マルチのような宗教ではないけど、宗教的集団から、距離を取る事ができた。
「コンクリ事件」を知る事で、親の不干渉が招く危険を知っていた。(加害者宅の親が子供部屋の管理・人の出入りにもっと注意していたらあの事件は起こらなかった)子育てをしている時「放置子」から、自分の子供を遠ざけるように、本能的に行動していた。小さな性犯罪も、放置子から発生する事をケーススタディとして知っていたので、関わらないように、自分の生活圏の人に放置子の危険性を話し、排除するように行動していた。
凶悪事件は、自分の隣でも起こりうる。
自分や、自分の大切な人が、巻き込まれる危険性に早期に気がついて、物理的距離を取るために、時に論理化できない頭の中の警鐘に従う。
その為には、やっぱり、ケーススタディを学んだ方が、より多くの事例の詳細を知っていた方が、頭の中の警鐘は鳴る。鳴りやすいと思う。
酒鬼薔薇の詳細を知らず、目にしていた小動物の異変に何も感じず、あのまま川崎のあの地に住み続けていたら、2人目の被害者に私がなっていたかもしれない。
個人として、危険の情報を蓄積しておくことが、身の回りの危険から、回避する行動につかながっていたと、今、考え直して改めて実感した。
「酒鬼薔薇」を、社会科の授業で習っただけ、と笑いを誘引する単語に選んではいけない。その違和感から、この記事をスタートしたけど、そういう違和感は間違っていない。
うるさいおばさんと思われても、今後も、危険の可能性の警鐘が頭の中で鳴ったら、論理化できないとしても、違和感の表現を続けようと思う。
そういう小さな事の組み合わせで、この世の平和は保たれてる。そう改めて思いました。
社会科の授業で習うほど大きな事件は、やっぱり一般常識として、興味を持って学んで置いた方がいいよ。
人間の未知の可能性も、人間の起こしうる危険にも、同じくアンテナを張って行こうと思いました。
この記事をここまで読んで下さった人は既に勉強してると思うけど、
「酒鬼薔薇事件」
「オウム真理教事件」
「綾瀬コンクリ事件」
「旭川いじめ事件」
「新幹線殺傷事件」
位は知っといた方がいいと思います。
何があったのか?
誰が誰に何をしたのか?
どんな環境で起こったのか?
事の起こりの初めにあった事はなんなのか?
辺りは把握しといて、損はないと思いますよ。
以上の事件は、犯人が逮捕されてて、解明されてる事がおおいので、未解決でモヤモヤしたりせず教訓を学べると思います。
オウム真理教については、とっても大長編で、全体を把握するのは凄ーく難しいのですが、私は小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」を入口に、村上春樹の「アンダーグラウンド」を読みゴールとしました。
「ゴーマニズム宣言」は、最初、小林よしのりがVXガスによる殺傷対象になってたのを、同席したアシスタントの警戒の視線により回避できた、という話題から、坂本弁護士一家殺害事件の話、オウム真理教の当初からの勧誘方法、組織の成り立ち、オウム真理教信者の精神構造、松本サリン事件・地下鉄サリン事件に至るオウム真理教内部の話題。巨大焼却炉を有していたので、実際に組織内で消された人数は今も明らかでないことが分かります。オウム真理教の事だけでも読む価値はあると思います。文字量は多いけど漫画だしね。
村上春樹の「アンダーグラウンド」は、地下鉄サリン事件の被害者の人に村上春樹が個人としてインタビューした、エッセイのような記録です。地下鉄サリン事件が、人々の日常生活の延長で被害にあった事を実感させてくれます。インタビューイーを、募集ではなく、カタカナだけの被害者名簿から探し出すところから話がスタートしており、被害者でーす!と手を上げる層では無い人がインタビューイーになってます。そこが、すごくいい所です。村上春樹は日本語の表現者として凄いので、めちゃくちゃ分厚い本なのですが、ちゃんと読み物として楽しめる日本語なので、オススメです。静かな怒りというか、誰でもただ日常生活をしていて被害者になりえたんだ、と、肌感で分かります。全部読むのは結構時間が掛かりますが、素晴らしい作品です。一人一人の章に分けられて完結しているので、どっからでも開いたページの1章だけでも読んでみて、面白かったら、頭から読むのでも成り立ちます。取材姿勢を知ってから読むとまた得るものは多いと思いますし。村上春樹はこれ以外にノンフィクションを書いてないので、そう意味でも貴重な作品です。
ゴー宣で、入口と、大体の全体像を掴んで、興味を持った固有名詞でネットで検索掛けたら、異様な写真資料が山ほど出てくると思います。サティアンの実際の内部写真とか当時の映像とか。
オウム真理教の一連の事件は、個人の持つ危険性と集団が意志を持ってしまった場合に悪く働くとここまでになってしまうのか、という悪い方向の学びがあひます。サクッと数時間で学び切れる内容ではないのですが、何日も何ヶ月もかけても、知る事で得るものはたくさんあると思います。
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