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大切な人が突然死んでしまったらあなたは何を思いますか <その1>

プロローグ

中学1年生の僕がいる教室で担任として自己紹介していたのがU先生だった。U先生は岩手県の海沿いの小さな町の出身だった。

新学期が始まる4月。当時僕は中学校1年生だった。初めて袖を通す学ランに胸を弾ませながら中学校へ向かった。中学校に着き、クラス発表を受けた。「同じクラスになれた!なれなかった!担任の先生はどんな人なんだろう。」そんな会話を繰り返し、指定された教室へ向かう。慣れないエナメルバックの肩掛けが擦れて痛み出したころ、教室にたどり着いた。友達と話す間もなく、担任紹介が始まった・・・

担任紹介が終わり、各クラスの時間となった。初めての中学校、初めての教室、初めてのクラスメートに初めての担任の先生。中学1年生の僕がいる教室で担任として自己紹介していたのがU先生だった。国語を担当すること、学生時代はレスリング部に入っており、レスリングが好きなこと、鼻の骨を鳴らす特技があること等、いろんなことを話してくれた。のちに僕の憧れの先生となる素敵な先生だった。

そんなU先生は岩手県の海沿いの小さな町の出身だった・・・。

日本を襲った大震災と未曽有の被害

中学校生活1年目も最終盤に差し掛かり、授業もホームルームが増えてきたころ、いつもと何も変わらない帰りの会の最中にそれは起こった。

東日本大震災である。幸い、僕の出身は誰もが感知できるほど揺れたものの、被害のない場所だった。とは言うものの、家じゃない場所で地震を感じること自体、恐怖だった。

「大丈夫かな?」そんな緊張をほぐしてくれたのは、U先生だった。机の下にもぐるふりをしてなごませてくれたり、「大丈夫」と声をかけてくれたりした。そのおかげで地震はあったものの何事もなく下校し、何事もなく友達の家に遊びに行くことができた。

「テレビつけてみな。大変なことになってるよ。」

友達のお母さんが僕たちに向かって言った。まさか、さっきの地震がその原因だとはちっとも思わなかった。

みなさんも記憶に新しいのではないでしょうか。ニュース画面に流れる映像を今も鮮明に覚えています。

2011年3月11日午後2時46分、東北の街は大きく揺れた。その約50分後、津波が街ごと飲み込んだ。逃げ遅れた人々はその犠牲となった。その数は18425人にのぼったという。

僕は、当時、愛知県の中学校に通う中学1年生だった。帰りの会の最中だったと思う。地震がきた。しかし、いつもと何か違う。気持ちの悪い横揺れが2分ほど続いた。

その後何事もなく家に帰り、友達の家に遊びに行く間に地震のことなど忘れていた。思い出したのは友達の家のテレビだった。津波に飲み込まれていく家や車。一面が黒い濁流・・・。逃げる軽自動車。

血の気が引いた。というのも、その当時、僕が教師を志したきっかけとなった担任の先生が岩手県出身だったのだ。

そのときは心安らかではなかっただろう。それでも教卓に立ち続けた。震災後、何日間かは家族の安否はわかっていなかったそう。U先生はどんな思いだっただろうか。その使命感は今でもまねできるものではないなと感じる。

後々聞いた話だが、家は全部流されてしまったそう。幸い、家族は全員無事だった。なぜか僕も胸をなでおろしたのを覚えている。

しかし、中にはこんな方もいたそう。その方は友達と犬の散歩をしていたそう。そのとき、東日本大震災が起きた。2人はすぐに高台に移動したが、数分したのち、友達が、

「家に通帳を取りに行くからこの子(犬)見ていて」

と言い、高台を降りて行った。その方は止めたが、聞いてくれなかった。

その友達は犬を残して戻ってこなかったそう・・・。



実際に被害が大きかった場所にいたわけでもなければ、被害を受けたわけでもない。それでも、U先生のことを思うと、何かできることはないかと考えるきっかけとなった。

そして、大学のとき、運命のように、学校安全について研究をしているM教授に出会うのである。

テーマの意図

大切な人が突然死んでしまったら。

皆さんは想像したことがありますか。もしくはもう経験されているでしょうか。

僕も何度か悲しい別れを経験しています。そのときに人はこんなにも簡単にいなくなってしまうんだと痛感します。

今でも”守れるはずだった”いのちが散っています。

このテーマで記事を発信することで1つでも多くのいのちが守れるのなら、僕にもできることがあるなら意味があると思い、このテーマで記事を投稿する決心をしました。

大切な人と少しでも長くいるための助けになれば幸いです。



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