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ショートショート 「クラック(亀裂)」
「賛成多数で議題3『マンション管理規約の改定』は承認されました。次に・・・」
今日は俺が待ちに待ったマンション管理組合の総会の日。
総会の議長席に座っている管理組合の理事長であるA氏をこっそり盗み見る。 苦虫を噛み潰したようなその表情に、俺は思わず笑みがこぼれてしまった。
いかん、いかん。誰かに見られただろうか。 少なくとも一緒に来ている美人で自慢の愛妻と小学校1年生になる愛くるしい愛娘は気付いていないようでホッとした。 本当に俺はラッキーな男だ、この二人は俺の宝物なのだ。
半年ほど前にあった管理組合の月例会の場で、理事長のA氏は突然マンションの管理規約改定の件を持ち出した。
「このマンションも来年度で竣工12年、計画されている大規模修繕工事の実施の年です。この工事は我々住民がこれまで積み立てて来た貴重な修繕費をもって行われますので、その工事業者選定には公明正大であることが求められます」
ほら、おいでになったぞ。
管理組合役員1年目の保守管理担当理事として出席していた俺は密かにほくそ笑んだ。
12名の役員で構成されるこのマンションの管理組合は2年任期の輪番制であるが、新旧役員業務のスムーズな更新と就任者の負担減のため、その半数が1年毎に変わるように管理規約で決められている。 そして、通常2年目の者の中から理事長が選ばれるのである。
そう、現在理事長であるA氏は、大規模修繕工事を実施する来年度は理事長でもなければ理事会の役員でもなくなるのだ。
そうなると地元では大手と言われる建設会社に勤めるA氏の気がかりは、そのライバル関係にある建設会社に勤めている俺が来年度も2年目として理事会の役員に残っていることなのである。
無理もない、逆の立場だったら俺だって輪番制の順番の巡り合わせの悪さに地団駄を踏んでいるところなのだから。
A氏の話の続きは俺の思ったとおりだった。
「だから、施工業者を決める立場にある理事会の役員が建設会社に勤めている場合、その建設会社は大規模修繕工事の見積等に一切関わることができないことを新たに管理規約に定めるべきだと思うんです」
月例会は、毎月1回マンションのエントランスロビーで開かれているが、この日出席している他の役員達が理事長と俺の方を興味深そうにチラチラ見ているのがわかった。
今の理事長であるA氏と俺がライバル関係にある建設会社に勤めていることを今の役員ならみんなが知っているのだ。
ちなみに知っているからこそ、建築物に詳しいだろうと半ば押し付けられる形で建物の修繕を含めた保守管理業務の担当理事を割り当てられたのだった。 A氏もやはり昨年度は保守管理担当理事であった。
理事長の発言の後、すかさず俺はこの日を想定して用意しておいた提案をした。
「賛成です。でも役員だけじゃ不十分じゃないですか。住民すべてにまで対象を広げた方がいいんじゃないですか」
A氏は面食らい、思わず言わないでもいいことを口走ったようだった。
「えっ。そうなると、あなたが役員でない場合でもあなたの会社は参加できないことになりますが・・・。例えばこの次の大規模修繕工事の時とかも。本気で言ってるんですか、売り言葉に買い言葉で言ったなら・・・、ああ、失礼。私、なんか言い過ぎてしまったようで」
「いえ、まったく構わないですよ。公明正大のためには、このマンションに住む誰とも関係のない会社に依頼する方がスッキリすると思いますから」
他の役員も驚いていたが、我々2人以外は建設会社と何ら関係のない人たちばかりである。
このマンションの住民の誰かと関係のある建設会社が不当な利益を得て受注するなどの懸念がなくなることから、他の役員は皆、俺の提案に賛成の意向を示した。
A氏は、自分が言い出したこともあって提案を引っ込めることができず、管理規約を改正することができる1年に1度開催される次の総会に「住民が経営する又は勤める建設会社は、大規模修繕工事の見積等に一切関わることができない」との一文を追加する議題の提出を渋々認めざるを得なかった。
総会では例年、役員の交代がはかられて現在の役員のうちの半数が退任し、残った役員の中から新理事長が選ばれることにもなっている。
150戸を有するこのマンションの大規模修繕工事となるとざっと見積もっても1億5千万円を下ることはないであろう。
この地方の地元中堅建設会社の受注額としては大きい方だ。
だからこそ自分の会社で受注したいという野心を隠しもしないA氏のことがわからないでもない。
今後、お互いにどちらの会社も受注することが出来なくなるよう提案した俺のことをA氏は訝しく思っていることだろう。
奇しくも、うちの娘とA氏の娘が小学校の同級生であり同じ幼稚園にも通っていたことから大の仲良しで母親同士もママ友として非常に親しくしているらしい。
しかし、父親同士はこれまで何となくお互いに距離を置くようなところがあった。 これで、これまで以上にA氏と俺との関係がギクシャクすること間違いなしである。
実は、俺には秘策がある。
4年ほど前に俺の従姉妹が結婚した。
その旦那になったのが、電気や空調といった設備関係の会社を親が経営しており、その会社の二代目となる跡取り息子であった。
年齢も俺と近いことから結婚式で意気投合して以来、いい飲み友達となっている。
時々、俺ができる範囲でうちの会社の設備関係の工事を回してやったりもしているのだが、ある時そいつから美味しい話を持ちかけられた。
「おたくのマンション、結構大きい方だよね。修繕工事っていつなんだい」
「えーと、確か2年後だったかな」
「あの大きさなら、どんなに安く見積もっても億はいくよね」
「ああ、150戸あるからね」
「150戸か、それはすごい。あのさー、うちの会社と懇意にしている建設会社があるんだけど、そういう大きな修繕工事を欲しがっていてね。そういうのが取れたらその設備関係は全部うちにくれるっていうんだよ。もちろん、受注のお礼をマンション関係者にも出していいって言っててね。2%だよ、もちろん現金で」
300〜400万円ほどになるであろう。ちょっとした小遣いどころではない額だ。
そのためにも俺は管理組合の次の理事長になって主導権を握り、その建設会社が受注できるように誘導する必要があるのだ。
輪番で嫌々役員になる者ばかりの中、理事長になろうなんて者はまずいない。 A氏は怪しむかもしれないが、俺が理事長に立候補すれば皆から感謝されながら理事長になれるはずである。
さらに管理規約も、俺が提案したように改定する必要があった。
個人情報保護の壁がある中、150戸の住民すべての職業など把握できるはずもなく、このマンションの住民の中にはまだ他に建設会社の関係者がいるかも知れないからである。
俺の予感は的中した。
この月例会のすぐ後に、建設関係者の他の住民がいることがわかったのだ。
まだ会ったこともない403号室の住民である。
この住民が保守管理担当理事宛てということで、俺が住む住居の郵便ポストに投書してきたのだ。
投書の内容は、マンションの正面玄関横の上、5階辺りの位置にある壁面にひび割れがあるというもので、びっくりした俺は急いで見に行ったのだが、ひびが入っているようにはどうしても見えず俺には何の異常もないように思えた。
悪戯かと放っておくと、その1ヶ月後にまた投書が来た。
訝りながらも再度見に行くと今度は小さな亀裂を遠目にも確認することができた。
こんなに小さな亀裂を見つける能力があり、しかも投書の文面には「亀裂」のことを建設業界でよく使われる「クラック」という言葉を用いていることからも建設関係で働く技術者に違いなかった。
管理規約を改正することで、この住民も自分の会社が受注することをあきらめざるを得なくなることにホッとするとともに、この亀裂の存在を他の役員の誰にも知られてはならないと思った。
特に今の理事長に知られてはならない。
なぜなら、今の理事長がこの亀裂の存在を知れば、それを口実にまだ自分が理事長であり、管理規約の改定前でもある今年度中に修繕工事を前倒しで始めるなどと言い出しかねないからである。
いや、奴ならなりふり構わずそうするに決まっている。
幸いその亀裂の真下は、正面玄関への歩道や車道とも離れており植栽がなされている場所であることから、万が一壁面が落下しても通行人や車等への直撃とはならない。
今日の総会が終わるまでは、と俺は無視を決め込むことにした。
約一月ごとに403号室からの投書は続き、その都度、壁面に浮きが見え出したなどと専門用語を使ってウザいほどに訴え続けて来た。
俺は、この投書の内容も利用することに決めた。
総会が終われば、初めて壁面の亀裂に気付いたようなふりをして総会直後の管理組合の月例会の場で役員たちに修繕工事に早く取り掛かるよう訴えるつもりだ。 そして、そのための工事業者もまた至急選定すべきだと新理事長となった俺自らが主張すればいいのだ。
俺の小遣いが早めに入ることになり一石二鳥だ。
そう、今日の総会で俺は理事長に選出された。
新年度の役員の誰もが理事長になりたがらなかったことに加え、新しい管理規約上では勤め先の建設会社に発注することができなくなったのだから何ら問題はなく、そのうえで大規模修繕工事実施の年の理事長には建設のことをよく知っている俺になってもらいたいと周りから推されての理事長就任であった。
俺が不要な疑念を招く立候補をするまでもなかったのだ。 願ったり叶ったりとはこのことである。
高齢や体調などを理由に総会を欠席する者が少なからずいるとはいえ、150戸規模の住民が一度に集まる場がマンション内にはないため、毎年総会はすぐ近くにある公民館を借りて行われる。
総会終了後、お互いに娘を連れて来ていた俺の妻とA氏の妻は、お互いの旦那の胸の内を知ってか知らずか仲良く連れ立って会場を出ていこうとしていた。
「お家に一度帰ってからランチを一緒にって約束してるの。お父さんたちはこれから引き継ぎがあるんでしょう。後でお店が決まったらメールするから2人とも引き継ぎが終わってから合流するってことでいいかしら」
「ああ、もちろん行くよ」にこやかに俺は答えたが、A氏はしかめっ面をしてただ頷いただけである。
引き継ぎの間中、俺はもう笑いを抑えるのに必死だった。
そうだ、近いうちに小遣い専用の銀行口座を作らないと、と思ったその時だった。
ドォーン。
地面が少し揺れたかと思った。
何かが爆発したような凄まじい音がして、すぐに公民館の外が騒がしくなった。
騒ぎは、我々のマンションの方から聞こえて来る。
俺は嫌な予感がして公民館を飛び出した。 A氏も俺に続いた。
マンションの正面玄関周辺に砂埃が立ち昇っており、破片が散らばっている。 5階付近の外壁が一部落下したのだ。
妻と娘がボーゼンと立ち尽くしている。 良かった、無事だった。
二人の姿を見つけて俺は心より安堵したが、それも一瞬のことだった。
妻と娘の視線の先には、倒れた娘を抱きかかえ叫んでいるA氏の妻の姿があった。
A氏がその場に駆けつけ、周りに「救急車」と半狂乱で叫んでいる。
俺は急いで携帯電話を取り出し救急車を要請した。
辺りが騒然とする中、救急車が到着すると、A氏とその家族を救急車に乗せるために俺は必死で救急隊員を手伝った。
A氏の娘の頭を外壁の破片がかすめたようで出血は多かったが意識ははっきりしており、母親とA氏を落ち着かせる方が大変であった。
救急車を見送り一段落した後で妻と娘の方を振り返ると、この騒ぎのためにマンションから無理して出てきたであろうと思える車椅子に乗った老人と話をしている。
振り向いた俺から妻と娘が目をそらしたことからあの老人が403号室の住民であること、そして俺と俺が愛する妻子との間に絶対に修復不可能なクラックが生じたことを確信した。
了
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京都市HP「京都市情報館」建築物の事件・事故対策(外壁タイル等の落下物対策について)から抜粋
![](https://assets.st-note.com/img/1707704528228-BO4GaViYhP.png)
独立行政法人 住宅支援機構HP「大規模修繕の手引きダイジェスト版」から抜粋