書くことは喜びであるのだろうか
誰もがプロンプト(命令文)で簡単にAI音楽が作れる時代が来たとしたら、米津玄師はどうするのかというインタビューの答え。
米津玄師はどんな方法であっても自身にとって音楽を作ることは喜びであり、それだけはかわらない、と。
しかし、どのように受けとめられてしまうかは変化していくから、その点は覚悟しなければならない。そんなふうな事を言っていた。
さすがは私の愛した人。時代の流れを自分なりに解釈して、受け入れようとしている。
冗談抜きで素敵な人ね。こんなにも素敵な人と、同じ時代の同じ国に生まれたことを嬉しく思う。音楽を愛してくれてありがとう。
そんな尊敬とも、敬愛とも言える彼のインタビューを読んで私はどうなのだろうか…ふと思った。
私はこのエンタメあふれる現代で、書くことを選んだ。それは米津玄師のような立派な理由があったからじゃない。文字しかかけなかったからだ。
私は本当は絵が描きたかった。それも漫画。少年漫画、少女漫画、なんなら同人誌だっていい。私の妄想を具現化して世に放ちたかった。
始めたのは、そんな不純な動機からである。
ちなみに、漫画を選べなかった理由は壊滅的に下手だから。どのくらいかといえば、絵心無い芸人に匹敵するほど。いや、あのテレビ番組に出ている人のほうが上手かもしれない。はは、笑っちまう。
それほどまでに、下手なのである。
それでも、どうしても、この欲望を誰かに伝えたかった。そための手段が『書くこと』だけだった、というのが理由だ。
正直、楽な方法を選んだ。漫画を描く努力をしなかったのは事実。そんなめんどうな事をしなくても、文字で表現できればそれでいいと軽く簡単に考えていた。
でも、それは間違いだった。
書くことは、私にとって地獄だ。企画に参加しては途中棄権し、創作大賞も大見得を切ったが結局中途半端。他の誰かのエッセイや小説を読んだのなら、敵わないと逃げる。そのアイディアに嫉妬する。この人の作品はこんなにも多くの人に読まれるのに私にはなぜ、それが出来ないのだろか。
私はすぐに絶望してしまう。
書いて書いて、書き直して、こんなにも醜悪な文章を書く自分に吐き気がする。何百、何千と書いては消して書いては消してを繰り返している。今日もまた、書いて消してを繰り返した。
なぜ私は天才ではないのか。なぜ私に才能がないのだろうか。この景色を表す言葉が浮かんでこない。書くほどに失われていく。
泣いて吐いて、時々壊して。時々止まっても私はまた動き出す。
それは、心の奥底に米津玄師の言葉があったから。
大好きな人は突然居なくなってしまう。きっと米津玄師は死別のことを言っているのだろう。
しかし、死別に限らず創作の世界では『大好きな人が突然いなくなってしまう』はよくあると感じている。
私のように生み出すことに絶望して辞めていく人がたくさんいるからだ。
この作品好きだな、もっと読みたいな。そう思って待ってても続編が更新され無いなんてザラ。
知らない間に抹消され二度と巡り会えないこともよくある話。
だから好きな人には好きと伝えるべきだ。消えないで、頑張って、と祈るだけではダメなんだ。
だから私は叫ぶ。文字を書くことが好きだ、と。
遠くない未来、文字を書けなくなる日が来るかもしれない。身体が不自由になったり、日本語を書くことが禁止になるコトだって100%無いとは言い切れない。
そうなったときに、私はきっともっと書いておけば良かったと思うのだろう。なぜ苦しんでも泣いても書かなかったのだろうと後悔するのだろう。
それは嫌だ。生み出せない地獄よりもっと辛い。だから、書く。書いて、書いて書きまくって絶望する。消しても、葬っても、名前を変えても書く。
そして本当の最後に、『書いたなー超書いたな』そう笑って死ねたら、そのときにようやく書くことは喜びとなるのだろうな。