中絶問題は日本には無いのか?
アメリカの大統領選挙で、中絶問題が重点的争点になっている。
妊娠した状況を組みする所があるにしても、出来ちゃったけれど育てられないと言うのは、権利の主張に当たるのだろうか。
また、当初は憲法上認められていたのが、政治的に利用されていて、命と健康に入り込んでいる。
この分断は、バイブルベルトを境にしてハッキリとしていて、歩みよるには根が深い。
日本では、中絶問題よりも夫婦別姓のほうが話題になるが、どうしてこうも違うのだろう。
日本には、生まれを曖昧にしている
満年齢と数え年がある。
満年齢は生まれた日が、0歳でおなかにいる間は年齢が無く、事実として生命は存在することになるが、選択は母にあり、胎児の権利は倫理的で、宗教感では命の尊さが優先される。
しかし日本では、数え年があり胎児の間は0歳なので、命の存在が認められており、生まれると1歳となり、正月が来ると神様から1歳の歳が与えられる。
厄年などは数え年である。
中絶が合法化されやすいのは満年齢の方で、数え年もある日本では反対議論とならないのは、哲学の形骸化と倫理観に芯がないからだ。
倫理観が欠如すると、自分の権利ばかり主張して、トイレに産み落とすことに、情動はない。
胎児に法令を当てはめることに、無理があるとしても、生命の尊厳は何よりも優先する。
胎芽から胎児へと五感が揃い始める12週を過ぎたら、生命に関わらない限り、如何なる中絶も認めるべきでは無いと、私は思う。