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#012 札幌北斗高校演劇部…猫はみえない③

 その頃の石狩支部(札幌、江別、恵庭、千歳など近郊の市町村の高校含む)の高校演劇では、生徒創作台本の舞台を観ると、それはもう見事くらい人が死んでいた。病死、事故死、自死、災害死、中には猟奇殺人の話まであった。もちろん、舞台での表現を規制したいわけではない。舞台表現は自由であるべきだと、常日頃思っている。舞台の上で何人死んでも、それはあくまでも架空の話なので困る人はそんなにいないだろう。ただ、観ていると「その死って、本当に必要?」というものがたくさんある。もちろん、世の中では、この瞬間も多くの人が様々な形で人生を終えているのも理解している。しかし舞台には観客がいて、その観客はそれぞれの背景を背負っている。作り手はその観客に対し、ある程度責任を負わなくてはならないと考えている。だから舞台上とはいえ、ネタのような安易な死が高校生によって描かれるのには、教員としても、「ちょっと待った!」と言わざるを得ない、そう考えている。

 では彼らは、舞台上といえども、どうしてそんなにも殺したがるのか。当たり前だが日常では出来ない行為なので舞台でならできる、という気持ちはあるのだろう。彼ら彼女らの読む漫画や小説、ゲームなどの影響もあるだろう。自分の身近に死というもが存在しにくくなったことも影響しているのかもしれない。
 台本の話で言うと、彼らには、死はおそらくといえども便利なツールに映っていたのかもしれない。誰にとっても死は訪れるのだが、いつそれが来るのか誰にもわからない。人間関係はあれこれあり、我々は日々頭を悩ますのだが、死というツールを使えば、どんなに拗れた人間関係も一瞬で終わらせられる。しかも、そこに人の感情までも揺さぶるというスパイスも振りかけられる。我々は60分という縛りで創作しているので、便利なのだと思う。安易な舞台での死はこんな感じで作られたのかもしれない。

 双子の男子と幼馴染の女子との三角関係を描く某野球漫画が過去にあった。もちろん著名な作者が描いたものなので、しっかりと練られたストーリーなんだろうなと思う。幼馴染との恋愛模様、一体どう結末がつくのだろうか?毎週読んでいた読者は、ヤキモキしながら雑誌の発売日を楽しみにしていたことだろう。しかし、ある突然、双子の片方が事故死という形で舞台から降りてしまい、残された男子がその意志を継ぐという話にシフトしていく。この展開でストーリーは盛り上がり、読者は涙を流し、どうケリをつけるのだろうと思っていた三角関係までもが一瞬で片付いた。もちろん、この漫画にケチをつけたいのではない。実際、作者の構想では、当初からこの事故死は組み込まれており、それを匂わせたのが漫画のタイトルなのだから。

 今回、迷い込んできた野良猫。それを迎え入れて主人公たちは、娘を失った夫婦とした。この台本の数年前、私はシングルファザーをしていたが、結局色々あって娘と引き離される事になった自分の話がそんな形で投影された。舞台は自由だと思っているが、そこには観客がいる.その舞台を観た観客がどう感じるのか、ということまでも計算しなくてはならないだろう。「娘を失った」という設定。これを観た時に同じような経験をされた観客がいた場合、どのように映るだろうか。そう考えた時、劇中に娘が死んだ、という直接的なものはあえて避けようと。
 繰り返し、娘のビデオを流し、ソファで無気力に座る妻。電気もつけずカーテンも閉めない部屋。そして散らかった家。会話のない夫婦。テレビからは投げつけるようなニュースが流れる。コンビニ弁当をビールで流し込む夫。不意に交通事故のニュースが流れると苦しそうリモコンでテレビを消す。
 こんなシチュエーションから舞台が幕を開ける。

 「死」というフレーズを使えば、観客にもっとわかりやすく情報を伝えられるのだがそれをしないため、高校生には少々難しいものになるのだ。

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