君の糠床を知りたい
「もしさ、女の子と飲んでいるときに『実は私、家でお手製糠床育てているの…』って囁かれたら、即好きになっちゃうよね」
なんとも恐ろしい話である。
この「上京したての18歳童貞男子大学生」のものと思しき発言は、1か月まえ飲みの席でぼく自身が発した言葉なのである。たぶんIQが2。
世の中には“ギャップ”こそモテの源泉である、などという言説がある。
かのCanCamの調査でも約67%の男性が「異性のギャップにときめいたことがある」と回答している。
女性に至っては79%。
たしかに、ギャップは恋愛におけるひとつの有効な手立てなのかもしれない。
イケメンで遊んでいそうなのに、実は一途
仕事ではしっかりしている男性が、二人きりだと甘えてくる
普段眼鏡をかけている女性が、急にコンタクトにしてきた
職場ではパンツスタイルの女性がデートではスカート
とかとか
もしかしたら「糠床育てているの…」という囁きは、ぼくにとって異性の“ギャップ”だったのかもしれない。
だけど、どうしてもぼくにはこれをギャップとして片づけてしまいたくない強い気持ちがある。
いまなら「STAP細胞はあります!」と言い張った小保方女史の気持ちがわかる。
なぜ糠床を育てているのか?という疑問が自然に湧いてくる「わけのわからなさ」、そして、些細だけど些細だからこそ人にあえて話す必要のないことを語ってくれたという希少性、あるいは極私的なものごと-概念としての秘部-を開陳されたことによる高揚感と、絶妙な「エロくなさ」(むしろ家庭的ですらある)によるものなのだろうか…
そう、「糠床育てているの…」には、彼女自身の過去、人生を想像させるような薫り立つ官能があるのだ。
そうした人生の官能と悲哀を詰め込んだ概念をぼくらはどう呼べばいいのだろう。
ぼくは一緒に飲んでいた友人と議論を重ねた。
議論は白熱し、夜は明け、季節は一巡し、うら若き乙女は愛の残酷さを知った。
議論を重ねて15分経ったころだろうか、ついに決着のときが訪れた。
「たとえばさ、こういう概念に名前をつけるときに、その概念を代表する具体的な例のひとつに仮託するっていう方法もあるんじゃない?」
そう口にした瞬間、ぼくらは声を合わせて叫んだ。
「「“糠床”だ!」」
アルキメデスが「ユーレカ!」と叫んだ歴史的瞬間を彷彿とさせる名シーンではないだろうか。
ギリシアのユーレカ。
平成の糠床。
そして、ときに最良の結末は、常に眼前にありながら明白すぎて見過ごされることがあるものだ。
すべてが理屈で説明されることを求められる世の中で、彼女はなぜ糠床を育てねばならなかったのか?という謎、「わからなさ」に出会うことの贅沢さ、そして秘密を共有する共犯者としての快楽、こうした人生の官能と悲哀を凝縮した一言を、ぼくたちは“糠床”と名付けた。
300年後の広辞苑にはこうした注記がなされるはずだ。
糠床(ぬか-どこ)
① 糠味噌のこと
② 人生の官能と悲哀を凝縮した一言のこと
最近、お酒の場でよく熱弁をふるってしまうテーマがある。
それは、せっかく一緒にご飯を食べてお酒を飲むなら“ほんとうのこと”を話そう、ということ。
Twitterでもこんなツイートをしてしまった。
「昨日飲み会で酔っ払っちゃって、後半ずっと『みんなもっと本音でしゃべろうよ。本音で話さないならこんな飲み会なんの意味があるんだよ』ってブチギレまくってしまったんだけど、この短い一生のなかでただ“ほんとうのこと”を語れるだけでも、その一瞬には価値があることだと思うよ」
「最近仕事はどう?」
「まあ、ぼちぼちかな。ちょっとやめたいかも。」
「恋愛は?」
「いいひとなかなかいないなぁ」
そんな表面的な話にだけ終始して、結局なにも得ないまま時間とお金、若さを浪費する。
これほど悲しいことがありますか
吉本隆明も語っている。
「詩とは、世界を凍らせる“ほんとうのこと”である」と。
それは、人間関係においても同じことが言えると思う。
ぼくは、きみの、“糠床”を知りたい。