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Zip保存のすゝめ

20代も後半になり、社会人歴数年経ったりなんかすると、そろそろ後輩の育成とか考えなきゃいけない年齢になってきますよね。
ついこの間まで生まれたてほやほやの赤ちゃんだったのに…
最近、ぼくの職場のチームにも新たに1年目の子がはいってきまして、
その子と向き合っているときに急にびっくりしちゃったことがありました。
「ええ、たった数年前に同じ状況(1年目)だったのに、当時の自分の不安とか悩みとか、な~~~んも思い出せねえ…!!」って。
たった数年前にようやく物心がついたぼくみたいな人間に、「後輩の育成」なんて早すぎるのかもしれない、いやはやどうしようと途方に暮れたわけです。


最近読んだ本(『問いのデザイン』安斎勇樹・塩瀬隆之著)に書いてあったのですが、学習には知識の習得という側面とともに、「学習棄却(アンラーニング)」が非常に重要なようです。
上記本に書いてあった例としては、「大学に進学して高度な数学を学ぶときに、高校で身に着けた公式を忘れなければいけないときがある」とかとか。
こんなに崇高な例でなくても、スポーツやらお仕事やらで、
知識として「当たり前」のものとして受け入れていたものを、「あれ、これって実のところどういう意味を持っていたんだっけ」って問い直すことで(葛藤を経て)成長した経験を持っているひとは多いかと思います。
学習によって獲得した認識は、いつしか当たり前のものとして固定化していく。
その認識がうまく機能している限りにおいてはいいけれど、新しい学習をする場面においては、無意識に自動化された認識が足かせとなることもある。
当たり前のものとして固定化されていた認識を崩して、当たり前でないものとして見つめなおす、それが「学習棄却」と呼ばれるものの正体のようです。


ただ、この「学習棄却」、ちょっと文字面がよくないのでは…?という気がします。
学習棄却、ないしはアンラーニングという文字を見たとき、ぼくには「忘却」のイメージが浮かんでしまいました。
ポケモンが技を覚えるとき「1,2のぽかん!」ってやるみたいに。
1つの技を覚えるために別の技を忘れる、そんな風にアンラーニングを捉えてしまうと、ちょっとミスリードになってしまうのかな、と思うのです。
すなわち、ポケモンではない我々が「学習棄却」するときには、Zipで保存するときのように、いつでも解凍できることを前提として圧縮するべきなのでは、と思うわけです。


これは、はじめに僕が書いたような、「後輩育成」等プラクティカルな場面だけで有効な概念ではなく、より射程の広い考え方なのではないかと思います。
かつての自分が保存しておいたZipを解凍することによって、そこに在ったはずの感情・思考を思い出せるということは、他者への想像力につながるのではないか。
高校生だったときの自分、大学入学したばかりだった自分、社会人なりたての自分、それは「いま-ここ」の自分にとっての他者であり、「ほんとうの他者」への優しさの回路の1つになりうるのではないでしょうか。


Zip保存は、言葉でも、絵でも、写真でも、どんなメディアでもいいのだと思います。
自分の好きなメディアで、いま-ここの痕跡を残しておくことは、何よりもかけがえのない資産なのかもしれません
それは懐古主義ではなく、過去の出来事から未来の出来事を違ったやり方でコントロールしようとする、人間に許された「自由」のひとつなのではないでしょうか。


とまあそんなわけで、会社の後輩よ!
今度から君と接するときには、なけなしのZipを解凍しながら話していこうと思っているよ!ぼくのポンコツCPUではたまに文字化けして読めないことがあるかもしれないけれど。

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