九條という『青い春』
今の自分にも、どうせ将来の自分に何もないとわかっていても、自分は違うかもしれないと、少しの希望みたいなものを持ってしまう。青木や私が九條に対して向けてしまうこの羨望は、そんな期待感と、彼に対する親近感故だ。ずっと近くにいた青木と、主人公である九條目線で見ている視聴者だからそう感じてしまう。主人公は九條だと分かっていても、視聴者が自分と重ねてしまうのは大方青木だろう。だとすると、この映画のエンディングは少々残酷とも思えるかもしれない。あいつらとは違うと、「お前にできないことしてやるよ」と、自分を模索する中で、行き着く先が死なのである。九條の影でしかなかった(なかったと思ってしまっている)青木が、その影を描いて、その影を実体化させて死んでいく。そこに青木の持っていると真っ直ぐさと恥ずかしさ、それを自覚していて誤魔化しじゃない生き様のようなものを感じる。刈り上げてからの目の曇りがない。青木に感情移入できるだけ、自分は自分を客観視できていて、等身大で生きているのではないかと思っていたが、いや、青木にも、雪男にすらなれないのかもしれないと、自分を叩きたくなる。そんな自分を突きつけるこの映画は、優しくない。が、終盤の『ドロップ』のデカいギターが鳴り響いて、九條が走り出してから、どうしたってカタルシスを感じてしまう。映像的な快楽はもちろん、「九條が青木のために走っている」というところに自分に対する肯定感を感じさせてくれる。死ぬ時くらいはみんな自分のことを見てくれるだろうって思える。こう思うことはある種の諦めだと、結局鬱映画なのか、と思われてしまうかもしれないが、死ぬことがかっこいいと思える、思ってもらえるということは、生きたいという欲望に繋がる気がする。今の自分のまま死ぬのではなく、意思ある死を遂げたい、青木くらい生き切りたいと思えるからかも。無気力な自分に、やっぱり、少しの希望を持たせてくれる。この映画自体が九條そのものなのか。
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