連載小説『ヒゲとナプキン』　#20

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　便器の内側の黒ずみに洗剤をかけ、ブラシで力強くこする。イツキの額には、冬だというのに薄っすらと汗が浮かんでいた。それを手の甲で拭いながら、「これでよし」とつぶやいた。掃除機もかけた。風呂場の浴槽も磨いた。ゴミ出しも済ませた。あれ以来、ずっと荒れ放題だった部屋を、お釣りがくるくらい綺麗にした。

　ピンク色のゴム手袋を外し、リビングでひと息つこうかとトイレから出たところでチャイムが鳴った。まるで玄関の押しボタンが体内と連動しているかのように、イツキの心臓は早鐘のように打ち鳴らされた。

　ドアノブに手をかけようとしたその瞬間、ダークグレーのドアが向こう側に開いた。

「ただいま……」

「おかえり……」

　玄関先でバツの悪そうな顔で立ち尽くすサトカの姿に、自分でも驚くほど自然に笑顔が浮かんだ。

「早く入んなよ」

「うん」

　サトカは視線をあちこちに動かしながら、廊下からリビングへと歩を進めた。

「へえ、意外と綺麗にしてんじゃん」

「まあね」

　たったこれだけが言いたくて、ちょっと早めの大掃除に精を出したようなものだった。

「なんか飲む？」

「あ、うん……」

「あったかいもののほうがいいよね」

　イツキはキッチンに向かい、紅茶のティーバッグを取り出した。

「ねえ、いいよ。私、自分でやるよ？」

「まあ、いいから座ってなよ」

「ありがとう。でも、なんかお客さんになったみたい……」

　サトカのつぶやきは、しかし湯を沸かすイツキの耳には届いていないようだった。

「お待たせ」

　湯気の立つティーカップをふたつ手にしたイツキが戻ってくると、サトカはソファから立ち上がってそれを受け取ろうとした。

「いいから、いいから」

　イツキはひとつをサトカの前に、もうひとつをテーブルの端に置くと、自分はその近くに腰を下ろした。

「イツキ、フローリングの上で痛くない？」

「あ、うん。大丈夫、ありがとう」

　玄関で目を合わせたきり、まだまともにサトカの顔を見ることができていない。イツキは視界の端でサトカを捉えながらも、ティーカップの中の紅茶に移る冴えないヒゲ面をじっと見つめていた。

　サトカが紅茶をすする音が聞こえてくる。合わせる必要もないのだが、追いかけるようにしてイツキも紅茶を口に含む。

「ねえ……」

「あの……」

　同時に顔を上げた。

「あ、ごめん。サトカから先にいいよ」

「ううん、イツキから先に話して」

「あ、うん……」

　イツキはティーカップをテーブルに置くと、再びサトカから視線を外した。下唇を軽く噛み、右手の指先でヒゲを撫でつける。頭の中では何度もシミュレーションした場面だった。がが、いざサトカを目の前にすると、紡ぐべき言葉を見失った。

「やっぱり、ショックだった」

「うん、ごめん……」

「どんなヤツなの？」

「ああ、うん……元カレなんだ」

　聞かなければよかった、と思った。ソファの上で俯くサトカの前髪は、簾のようにその表情を隠していた。

「半年くらい前だったかな。前のカノジョと別れたみたいで、ヨリ戻したいって。もちろん、こっちにそんなつもりはなかったんだけど、相談に乗ってもらうにはちょうどいいかなって」

「うん……」

「ズルいよね、私。あの人のことも利用してたし、イツキのことも裏切った。自分のことしか考えられない、サイテーの女だよ」

　イツキは両膝を抱えて、サトカを見つめた。彼女もまた、ソファの上で両膝を抱えていた。

「子ども、欲しいんだよね？」

「うん……」

「そいつとだったら、つくれるんじゃない？」

「やだ、やめて！」

　突然、サトカが大きな声を出した。

「そういうんじゃないの。彼には悪いけど、本当にそういうんじゃないの」

　髪をかきあげ、表情があらわになった。そのまっすぐな眼差しは、ATSUSHIという男の存在が、サトカにとっては一時的な雨宿りをする場所に過ぎなかったのだと信じさせるのに十分なものだった。

　二人の間から、言葉が消えた。イツキは沈黙が続くことが怖くて、引き寄せたティーカップから大げさに紅茶をすすった。

「一緒にいたい」

「え？」

　しばらくしてつぶやいたイツキの言葉に、サトカが顔を上げた。

「もう二度とあの男と会わないと約束してくれるなら、これからも一緒にいたい」

「うん」

「だけど……」

　イツキは視線を下に落とし、ヒゲをなでた。

「だけど、俺と一緒にいることで、サトカを苦しめることはしたくない」

「うん」

「俺にサトカと一緒にいる資格があるのか……正直わからない」

　その言葉を口にした瞬間、まるでそれが導火線となったかのように、急に視界が滲んでくるのを感じた。サトカはしばらく黙ったままテーブルの上の紅茶を見つめている。

「資格なんて言わないで。私だってイツキと一緒にいたい。でもね……」

　サトカは少しためらい、そしてイツキのほうに向き直った。

「それと同じくらい、やっぱり子どもが欲しい」

「うん」

「イツキも、子どももなんて、自分でも欲張りだなって思う。だけど私の人生を考えたとき、どっちも必要だなって。私はイツキと、子どもを育てていきたいんだ」

「うん、ありがとう……」

　イツキは照れ隠しにヒゲをなでながら、鼻の奥がツンとしてくる感覚を必死に隠していた。

「この一週間、俺もいろいろ考えたんだ。考えたんだけど、やっぱり手術をしてまで戸籍を変えようという気持ちにはなれなくて……」

「うん、そっか」

「でもね、自分でもびっくりしてるんだけど、子どもは……アリかなって」

「えっ？」

　サトカの顔が、冬に咲いた向日葵のように明るくなった。

「昨日さ、姉ちゃんの家に行ってきたんだ。ほら、甥っ子が生まれたって言ったろ。まだ会えてなかったなと思って」

「うん」

「でさ、抱っこさせてもらったんだけど……うん、なんというか……子どもっていいな。それこそ俺にその資格があるのかわかんないけど、父親になるのも悪くないなって」

「イツキ……」

　サトカは両手で顔を覆うと、くぐもった声を漏らし始めた。

「なんだよ、そんなに泣くなよ」

「うう……だって……うう……うれしくて」

「まだちょこっとネットで調べただけだけどさ、方法がないわけでもないみたいなんだ。俺も、もしかしたら父親になれるのかもしれないなって」

　サトカはやはり嗚咽を漏らしながら、時折、鼻をすすっている。

「だからさ、ひとまず戻っておいでよ。また一緒に暮らそう」

「うん、うん……」

　イツキは立ち上がると、大きく肩を震わせるサトカの身体を強く抱きしめた。

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