連載小説『ヒゲとナプキン』 #最終話
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昼過ぎには陣痛が始まったものの、一向にそのペースは速まることがなかった。イツキは長期戦になることを覚悟し、翌朝は病院からそのまま出社できるよう、ひとまず荷物を取りに自宅へ帰った。
夜九時過ぎ。病院へと戻ると、そこには前橋からシゲルとフミエが、湯河原からは宗弘が駆けつけていた。決して広いとは言えない陣痛室はすでにすし詰め状態で、サトカも含めた五人でおしゃべりに花を咲かせていた。
「ああ、イツキ君。いよいよだねえ」
「何よ、イツキ。そんなところでボーッと突っ立って」
フミエに促されて部屋に足を踏み入れたイツキだったが、その光景にはどうしても込み上げてくるものがあった。
サトカは、問題なく気に入られた。イツキも、多少の時間はかかったが受け入れてもらうことができた。最後に残ったのが、両家の顔合わせだった。
「血のつながりもないし、法的なつながりもない。それなのに『うちの孫』だなんて呼んでいいのかしら」と、祖母という立場への葛藤を感じていたフミエ。
「はじめは女の子だったかもしれないが、いまでは山本家の大事な跡取り息子。そんなイツキ君をうちの旅館で奪い取るようなことをしてしまっていいのだろうか」と最後まで悩み抜いていた宗弘。
東京に呼び寄せ、何度か食事をするうち、ぎこちなかった空気も次第にほぐれていき、いまではこうして“親類”と呼べる間柄にまでなれた。
「もう、みんなして駆けつけて、ホントに大げさなんだから」
サトカは顔をほころばせながら、あえて口を尖らせてみせた。
「違うわよ、みんなサトカちゃんのことが心配なわけじゃなく、一刻も早く光ちゃんに会いたいだけ」
「なにそれ。お義母さん、ひどい〜」
お腹の子には、光(ひかり)と名づけていた。男の子だろうが、女の子だろうが、しばらく育ってみないと本当の性別はわからない。ならば、どちらの性別でも困らないような名前にしようとイツキが提案した。
以来、サトカも、イツキも、そして前橋や湯河原の“祖父母”も、サトカのお腹に向かって「ヒカリ」と呼びかけていた。生物学上はひとまず男の子だと判明したヒカリはとても元気がよく、名前を呼ばれるたびに内側からサトカのお腹を蹴って返事をした。
「ううっ……ううううっ……」
会話の途中、サトカが腰のあたりを押さえて呻き声を漏らした。
「だいぶ間隔が早まってきたね……」
「ううううっ……ううううっ……」
くぐもった呻き声が、これまでよりも長く続く。
「そろそろかね……もう破水からずいぶん時間が経つし」
「僕、助産師さんに知らせてきます」
イツキの知らせを聞いてすぐに駆けつけたベテラン助産師の米倉は、手慣れた様子でサトカを寝かせて、子宮口の開き具合を確認した。
「うん、もう十分に開いてきましたね。そろそろ分娩室に移りましょうか」
サトカが無言でうなずく。
「サトカちゃん……」
「サトカ……」
シゲルとフミエ。宗弘と順子。それぞれが祈るような視線で、米倉に付き添われて分娩室へと向かうサトカを見送った。
立ち会い出産を希望していたイツキは、米倉から手渡された付き添い者用のガウンをワイシャツの上から羽織ると、急いでサトカの後を追った。分娩室に入ると、中央に設置された分娩台の上にサトカが寝かされるところだった。
「はい、じゃあお父さんはこちら側に来て、お母さんのサポートお願いしますね」
病院側にはあらかじめ事情は話しておいた。万が一のことがあったとき、手術などの手続きには“配偶者”のサインが必要だったからだ。ふたりが法律上の夫婦でないことを伝えても、米倉をはじめとする病院のスタッフは、「いまどき事実婚のご夫婦などもいらっしゃいますから」と特に意に介する様子はなかった。まだ子どもが生まれていない状態で「お父さん」、「お母さん」と呼ばれるのはどこかくすぐったくもあったが、ほかの夫婦と同様に扱ってもらえることが何よりうれしかった。
米倉はベテランらしく、手際よく出産の準備に取りかかっている。その落ち着き払った様子が、いよいよ初産を迎えるサトカにとっても、しっかりサポート役をこなせるか不安に思っていたイツキにとっても、この上なく頼もしく感じられた。
「ひっ……うぐぐぐぐ……ううっ……」
分娩台の上で横になったサトカが、これまでとはあきらかに様子の違うトーンで大きな呻き声を上げた。
「えっ、サトカ。だいじょうぶ?」
「だいじょうぶですよー。こうした痛みが断続的に来ますからねー」
激しい陣痛に苦しむサトカに代わり、米倉が笑顔で答えてくれた。
「そうなんですね……」
それでも苦痛に顔を歪めるサトカの様子が気にかかり、イツキは不安げな表情を浮かべ、ただ分娩台の横で所在なく立ち尽くしていた。
「ほら、せっかくいらしてるんだから、手を握ってあげたり、奥様が暑がっているようだったら、うちわで仰いであげたりしてくださいね」
「は、はい……」
分娩室に入れば、ものの三十分ほどで出産を迎えるものだと思い込んでいたイツキにとって、そこからの二時間はまるで永遠かと思われるほど長い時間に感じられた。分娩室の壁に取りつけられた時計にいくら視線をやっても、その針は決して動くまいという頑なな意思が感じられるほど、進みが遅かった。
午前〇時を過ぎた。サトカの体力はいよいよ消耗しているはずだったが、その叫び声は一段と大きなものとなっていた。
「ううう……ぐああああああ」
まるで獣のようなサトカの咆哮が分娩室に響き渡る。同時に、イツキの手のひらが力強く握り締められる。
「はい、そう、いきんでください」
米倉がすかさず声をかける。サトカは「うう……うう……」と、返事とも泣き声ともつかない、くぐもった声を漏らすばかりだった。
「ううううううう……あああああああ」
ふたたびサトカがありったけの力で叫んだ。
「そうです、いきんで」
サトカを笑顔で励ます米倉の額にも、少しだけ汗がにじんでいる。
イツキは、なぜ自分がここにいるのかわからなかった。サトカと、医師と、助産師と。この部屋にいるすべての人間が、ひとつの命を生み出すために力を振り絞っている。無力なのは、自分だけだった。
ただでさえ出産時の男親は無力感に苛まれるものだと聞いてはいた。だが、妊娠するにあたってもまるで戦力になれず、また出産にあたっても何の力にもなれていない自分は、ここにいる資格さえないのではないかと自己嫌悪に陥った。
「暑い……ふう……暑い……」
サトカのかぼそい声で、イツキは我に返った。あわてて右手に持ったうちわでサトカの上気した顔を仰ぎ、左手でストローの挿さったペットボトルを差し出した。
「うう……うう……ひい……ひいい」
「そう、いまのうちに呼吸を整えてくださいね」
米倉の的確な指示が飛ぶ。
「うううううう……ぐあああああ」
「そう、いきんで。ほら、あと少しですよ」
米倉のとなりに陣取る男性医師は、さかんに「あと少し」とサトカを励ましていたが、もうそのフレーズも十回目だった。いつになったら、その「あと少し」が訪れるのかと不満に思っていたところに、米倉の甲高い声が耳に届いた。
「ほら、もう頭が出てきた。あと少しですよ」
米倉の言う「あと少し」なら、不思議と信じられる気がした。
「サトカ、がんば……」
もう十分すぎるほどに頑張っている。いまさら、その言葉は必要ないと飲み込んだ。
「ふう……ふう……はあ……はあ……」
乱れる息遣いを耳にしながら、イツキはサトカの手のひらを握りしめた。すでに言葉を交わす余裕のないサトカは、その手を強く握り返すことでイツキに思いを伝えた。
「ああ……あああ……ぎゃああああああ……」
まるで断末魔の叫びを思わせるような絶叫が、分娩室に響いた。骨が砕けるかと思うほど、イツキの手が強く握られる。
「そう、そう、いきんで」
「上手よ、あと少し」
そのとき、一瞬の静寂が訪れた。その、直後だった。
「ふぎゃ、ふぎゃ、ふぎゃ、ふぎゃ」
サトカの足元から、命が誕生した証が聞こえてきた。その産声は鈴のように可憐で、どこまでも澄んだ響きだった。
「サトカ!!」
大仕事をやってのけた最愛のパートナーの手をあらためて握りしめ、その顔を覗き込む。分娩台に横たわったまま目を閉じたサトカの目尻からは、ひと筋の涙が伝っていた。
闇夜に、光が生まれた——。
「元気な男の子ですよ」
米倉は取り出された光の血を拭い取り、体重を計測すると、その小さな身体をサトカの胸の上に乗せた。
「わあ、あったかい……」
つい数分前まで獣のような雄叫びを上げていた女性とは思えないほど穏やかな表情で、サトカはみずからの胸で泣き声を上げるわが子を見つめていた。
その傍らで、イツキもまた涙を流していた。不安で、仕方なかった。
父になれるのか。
父だと思えるのか。
父だと思ってもらえるのか。
光り輝くわが子の顔を目にした瞬間、すべての不安が消え去った。
「光、お父さんだよ。会いたかった……」
愛する二人を包み込むように、イツキは分娩台に向かって両腕を伸ばした。
「ねえ、あれ……え、いつ?」
うっすらと目を開けたサトカが、怪訝な顔つきでイツキを見つめている。
「ん、何が?」
「ヒゲ……どうしちゃったの?」
イツキは照れくさそうな笑みを浮かべながら、いつものクセで数時間前に裸になったばかりのあごを撫でてみせた。
「あ、うん……もう、俺には必要ないかなと思って」
【完】
・約9ヶ月にわたって連載を続けてきた『ヒゲとナプキン』も、今回を持ちまして最終回となります。長い間、ご愛読ありがとうございました。
・今回の表紙は、オッカー久米川さんが作成してくださいました。久米川さん、いつもありがとうございます!
・ぜひ、この小説の感想をSNSでお寄せいただければ幸いです。頑張って執筆した努力が報われます!
・さらにはサポートもいただけると泣いて喜びます。一人で打ち上げしてきます(笑)!
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