連載小説『ヒゲとナプキン』 #14
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玄関のドアに鍵を差し込み、できるだけ音を立てないようにそっと回した。心の中で、「一、二の三」と唱えながら、静かに開けたドア。廊下はもちろん、リビングの電気も消えている。
深夜とも早朝ともつかない午前四時。忍び足で廊下を進み、リビングへと続くドアのガラス窓から中の様子を窺う。サトカがいる様子はない。体を反転させ、寝室のドアを開ける。トイレにも、浴室にも、その姿は見つからなかった。
どこかで胸を撫で下ろしている自分がいた。怒りと悲しみ。申し訳なさと愛。ないまぜになった感情のどの部分を出して、どの部分を隠しておくべきなのか、二時間近く深夜の街を徘徊しながら考えてみたが、一向に答えを見いだすことができずにいた。
暗闇の中を手探りでキッチンへと向かい、冷蔵庫を開ける。庫内灯の白い光に思わず顔をしかめる。缶ビールを二本取り出し、そのままソファに腰を下ろした。
心地よい泡の刺激が、慌ただしく喉を通り過ぎてゆく。「ふう」と大きく息を吐いた。サトカのこと。将来のこと。みずからの肉体のこと。実験用ラットのように同じところを何度も巡り続けた思考回路をアルコールで遮断してしまおうと、ハイペースでビールを口元に運んだ。
三五〇ミリリットルの缶は、すぐに空になった。二本目のプルタブに指をかける。プシュッと小気味のいい音がしたところで、イツキは急に寒気を感じてその缶をテーブルの上に戻した。帰宅早々、どうして冷えきった身体に、よく冷えたビールなど流し込んだのだろう。傍らにあったブランケットにくるまりながら、イツキはテーブルの上の空き缶をじっと見つめていた。
背もたれに寄りかかり、目を瞑る。考えるほどに胸が苦しくなるのに、それでもサトカの顔が思い浮かぶ。
仕事が終わって帰宅するなり、「ふう、疲れたあ」とソファで寛ぐイツキにしなだれかかってくるサトカ。イツキがテレビを観ている横で、お気に入りのワインレッドのマニキュアを塗っているサトカ。「痩せなきゃなあ」と口癖のように言いながら、ハーゲンダッツのアイスクリームをうれしそうにスプーンですくうサトカ。様々な場面が次から次へと溢れ出し、愛おしさを募らせる。
サトカに、会いたい。
いま、どこで何をしているのだろう——。
突如として、ベッドの上で見知らぬ男に抱かれ、恍惚の表情を浮かべるサトカの姿が脳裏を過ぎった。
どんな顔をして男を迎え入れたのか。
どんな声を上げて悦びを表したのか。
想像すればするほど嫉妬の炎が燃え盛る。しかし、正真正銘の男に抱かれる彼女は、残酷なほどに美しかった。
「ううっ」
くぐもった声を漏らしながら、イツキは目の前にあった空き缶を思いきり右手でつかんだ。ぐしゃっという音を立てて変形した缶が、バランスを失って横倒しになる。中に少しだけ残っていたビールが、テーブルの上に小さな水溜まりをつくった。
「おかえり……サトカ」
こぼれたビールを見つめながら、イツキは二度と口にすることができなくなるかもしれない言葉をつぶやいた。
ソファから立ち上がる。一瞬よろめいたのは、まだビール一本しか飲んでいないアルコールのせいなのか、足が棒になるほど歩いたせいなのかは自分でもわからなかった。玄関まで歩いていくと、鍵がかかっているかを確認し、さらには内鍵までかけた。
その足で寝室へと向かう。クローゼットを開くと、戸棚の奥を漁った。伊勢丹の派手なタータンチェックの紙袋の中には、友人がいつ泊まりにきてもいいようにと予備の寝具が眠っている。だが、イツキはその下に、サトカにも決して見られたくない包みを隠していた。紙袋から寝具をすべて取り出すと、いちばん奥底に沈んでいた小さな包みを用心深く拾い上げた。
下唇を軽く噛み締めながら、イツキはしばらくその包みを見つめていた。やがてそのままベッドに腰かけ、朝からの酷使ですっかりくたびれたスーツとワイシャツを脱ぎ捨てる。ビニル袋に入った小さな包みを傍らに置き、いつもより幾分広く感じられるセミダブルベッドに潜り込む。冷えきった身体が、少しだけ体温を取り戻した気がした。
布団の中で動かしかけた右手に、脳が即座に停止信号を送った。放心状態のまま、しばし宙を見つめる。天井の黒ずんだシミが、やがてサトカと見知らぬ男が抱き合うシルエットに化けた。
「やめろーっ」
何かが、決壊した。右手がへその下へと伸びる。カーキ色のボクサーパンツの上に、イツキの細い指が這い回る。やがて縦に伸びる溝を探し当てたその指先は、その溝に沿って上下動を繰り返す。しばらくその往復を愉しむと、イツキは指の位置を真上に引き上げた。
寸分違わずに小さな突起を捉えた中指は、カーキ色の薄い布地の上で何度も小さな弧を描く。もう迷いはない。イツキはボクサーパンツを一気に腰から引き抜くと、すっかり湿り気を帯びた溝に中指を添えた。
「俺はやはりオンナなのか……」
それは喉元に刃を突きつけられるような事実だった。だが、今夜ばかりは、「メスとしての本能」があらゆる理性や感情を超えてしまっていた。
秘部に押し当てた中指に力を込める。蜜があふれる窪みは、すぐに細い指先を飲み込んだ。さっきまで伊勢丹の紙袋に沈んでいた枕元の包みを手早く開ける。中から出てきたのは、シリコン製のバイブだった。薄いピンク色をした本体の電源を入れる。右手でその根元をつかむと、ヘッド部分をそっと股間にあてがった。
手が、止まった。布団の中ではヴイン、ヴインと鈍い振動音がイツキを誘っている。
固く目を閉じた。屈強な大男にのしかかられ、ベッドの上で身動きが取れなくなった自分をイメージする。性的にまるで興味を抱くことのない男性に支配される状況は、想像しただけで吐き気を催した。それでも、いまのイツキはみずからの貞操を危機に晒す存在を欲していた。
イツキの脳内が生み出した男は、屹立した自分のモノを手にして、いまにもイツキの股間に当てがおうと機を窺っている。
「やめろ、やめろ」
脳内で、必死に抗う自分を演出する。
「挿入なんかされてたまるか」
「俺は男なんだ」
架空の強姦魔に向けて用意した言葉は、残念ながら自分の理性に対するエクスキューズに過ぎなかった。
体中に電気を流されたような快感が走る。ピンク色のヘッド部分はイツキの深い洞窟にすっぽりと埋まり、さらには奥のほうで大きくうねっている。その動きに合わせて、その身を沖合まで運び去るかのような快感の波が、何の迷いもなくイツキに押し寄せる。
ヴイン、ヴイン。ヴイン、ヴイン。
ヴイン、ヴイン。ヴイン、ヴイン。
男だとか、女だとか、すべてがどうでもよくなった。いまはただひたすらに、この快楽に身を委ねていたかった。
トゥン、トゥン。トゥン、トゥン。
トゥン、トゥン。トゥン、トゥン。
バイブの先端から飛び出たクチバシのような突起が、イツキの最も敏感な部分を啄む。
膣の奥底で感じるうねりと、すべての思考が停止するほどの刺激。それらの快感が同時に下半身から全身へと駆け巡り、サトカにも決して聞かせたことのない呻き声が漏れる。
ヴイン、ヴイン。ヴイン、ヴイン。
トゥン、トゥン。トゥン、トゥン。
次第に波が高くなり、押し寄せるペースが早まっていく。下半身が硬直し、カエルのように開かれていた両脚が、上を向いて揃えられる。やがて、猛烈な高波に襲われ、野生的な震えが訪れた。
「はあ、はあ……はあ、はあ」
電源を切った。力の抜けた右手から、薄いピンク色の玩具が滑り落ちる。
女性としての肉体が、絶頂を味わった。それが何より、許せなかった。イツキは右手をあごまで持っていくと、短く生えそろったヒゲを強く引っ張った。
「ぐうう……ううう……」
イツキの目から、大粒の涙が流れ落ちる。すすり泣く声は、カーテンが光に晒されるまで消えることがなかった。
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