連載小説『ヒゲとナプキン』 #18
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「もう、誰よ。こんな時間に……」
生まれて三カ月のマコトに授乳を済ませ、ようやく母子ともにまどろみかけていたところに、静寂を破るチャイム。コズエが壁時計に目をやると、まだ午前十一時だった。眠りの入り口にいたマコトを抱きかかえたままソファから立ち上がり、インターホンを取る。画面に映る顔を見て、コズエは思わず驚きの声をあげた。
「なんだ、イツキじゃない。どうしたの?」
オートロックを解錠すると、一分も経たないうちに玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、やけに顔色が悪く、痩せこけた弟の姿がそこにあった。
「来るなら連絡くれればいいのに。てか、あんた、会社はどうしたの?」
「ん、ああ、有給取った……」
イツキは弱々しい声で答えると、コズエの腕の中からじっと自分のことを見つめる幼い甥っ子に微笑んでみせた。
「まあ、いいから入りなよ」
「うん、おじゃましまーす」
コズエに案内されるまま、イツキはリビングのソファに腰を下ろした。生後三カ月の乳児を育てる家のリビングはもっと雑然としているものかと思っていたが、意外にもきちんと整頓されている部屋の様子に、幼い頃から几帳面な性格だった姉らしさが感じられた。
「あ、ご飯まだでしょ? 食べてく?」
「ああ、うん」
「たいしたものは出せないわよ。あ、Uber Eatsでいいか。何か食べたいものある?」
「ん、何でもいいよ」
コズエはマコトを抱えたままイツキのとなりに座ると、テーブルの上に置いてあったスマホに手を伸ばした。アプリを立ち上げたのか、熱心に画面をスクロールさせている。
子どもの頃はこうしてソファに並び、一緒にテレビを観ていた。当時は、三歳違いの仲のいい「姉妹」だった。しっかり者の姉と、やんちゃな妹。周囲も、そしてイツキ自身も、そう思っていた。やがて思春期になり、みずからの性別に違和感を抱くようになった。いつしか、「妹」ではいられなくなってしまった。
初めてカミングアウトしたのもコズエだった。インターネットを通してジンの存在を知り、みずからがトランスジェンダーだと確信を持ったとき、誰かにそのことを知ってもらいたくなった。理解してほしいと願った。イツキが高校三年生のことだ。
「ああ、そんな気がしてた」
ずいぶんとあっさりした反応に救われた。
「そんなことより、このまえ貸した千円、早く返しなさいよ」
わざわざこのタイミングで付け加えるあたりに、コズエなりの優しさを感じた。
都内の一流大学を卒業して、大手製薬会社に就職。一年前の夏に数年間付き合った職場の同僚と結婚した。今年九月に第一子であるマコトが生まれたばかりだ。他人に厳しく、あまり愛想のあるタイプとは言えないコズエに、はたして母親など務まるのだろうかと不安もあった。だが、片手でスマホを弄りながらも、もう片方の手でマコトの背中を優しくなでる姿に、それが身内だからこその杞憂でしかなかったことを理解した。
「そう言えば、お父さんとはあのまんま?」
「あ、うん……」
コズエがスマホから目を離すことなく繰り出した質問に、イツキもまた視線を正面に向けたまま曖昧な答えを返した。
「もういい加減にしなさいよ。私の披露宴だって、ろくに話さなかったんでしょ?」
「そう、だね……」
コズエの披露宴が催されたのは一年前の夏だった。七年間も口を利いていない父親と同じテーブルに着いたが、それでも一切、言葉を交わすことはなかった。ヒゲを生やした娘の姿に、父はどんな思いを抱いたのだろう——。想像するだけで憂鬱になった。
以来、コズエと会うことにも億劫になっていった。姉との会話が、父親へと通じる扉のように感じられてしまったのだ。子どもが生まれたとの知らせを受けてもなかなか顔を見に行くことができなかったのは、どうしてもその奥に透けて見えてしまう存在を避けてのことだった。
「なあ、姉ちゃん」
「ん?」
「マコト、かわいい?」
「何よ、いきなり」
コズエは画面をスクロールする手を止めて、イツキの顔をまじまじと見つめた。
「いや、子どもができるって、どんな感じかなと思って」
「うーん……先に子育て経験してる友達から『大変だ、大変』だとは聞かされてたけど、想像してた何十倍も大変ね」
「マジか」
「でもね、なんていうのかな。私って、ちっぽけじゃないんだなと思えるようになった」
「何それ」
「この子が泣いて、私がおっぱいあげて。この子が泣いて、私がオムツ替えて。ああ、頼られてるんだなって、この子は私がいないと生きていけないんだなって、そう思うの」
「ああ……うん」
「ほら、十年近くも会社勤めしてるとさ、別に私なんていなくなって、社会は何ひとつ変わらず動いてくんだ、みたいに感じることあるじゃない。それがね、私がいなくなったら、この子にとっては一大事なんだなって」
姉のコズエは、小さい頃から勉強がよくできた。行儀もよく、親からも教師からも優等生だと安心されていた。だが、本人にはなぜか自信がなく、「どうせ私なんて」が口癖だった。そんなコズエが、三十を過ぎて「私って、ちっぽけじゃないんだ」と微笑みを浮かべている。弟として、心から祝福してやりたいと思った。だが、その幸せを自分は手に入れることができないのだという事実が、鋭い針のように胸を刺した。
「あのさ……」
「ん?」
「抱っこしてみていい?」
コズエは少し驚いた顔を見せたが、すぐさまスマホをテーブルに置くと、ゆっくりと腕を伸ばしてマコトを自分の胸から引き離した。イツキが恐る恐る手を伸ばす。
「手で抱えるというよりは、胸とかお腹で抱えて、そこに手を添えるイメージね」
相変わらず論理的で的確な物言いをする姉の手から、マコトを受け取った。
「あったかい……」
生まれて三カ月に過ぎない小さな命は思いのほか熱を帯びていて、イツキを驚かせた。
「マコト、イツキおじちゃんでちゅよ」
慣れない赤ちゃん言葉を口にして、マコトの顔を覗き込んだ。腕の中から、つぶらな瞳が見つめ返す。目が合った。
「姉ちゃん、笑った。マコトが、笑った」
「そう、気のせいじゃない?」
「ううん、笑ったよ。マコト……マコト、ありがとう」
自分には決して生み出せない命。その事実を突きつけられ、絶望することを恐れていた。だが、マコトのあたたかな感触は、そんな胸の内にあった感情を見事に吹き飛ばしてくれた。この命は、コズエ夫妻にとってだけでなく、両親にとってもかけがえのないものなのだ。コズエは、母を祖母にした。父を祖父にした。自分にはできないことを、してくれたのだ。
「ありがとう……うう、ありがとう……」
両手がふさがっているイツキには、とめどなく溢れ出す涙をどうしても拭うことができなかった。コズエはテーブルにあったスマホに再び手を伸ばすと、カメラアプリを立ち上げてイツキにレンズを向けた。
「ほら、マコト。泣き虫のおじちゃんと写真撮っておこうね」
そう言ってシャッターボタンを押したコズエの目にも、うっすらと涙が浮かんでいた。
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