連載小説『ヒゲとナプキン』 #36
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学生たちの春休みと年度末決算が重なる三月末は、旅行業界きっての繁忙期。ひっきりなしにかかってくる電話に応対し、各所から届くメールに返信していると、イツキのデスクの上に置いてあったスマホが震えた。
「陣痛が始まったみたい。そろそろ病院に向かうね」
サトカからのメッセージに、イツキはスマホを握りしめたまま、思わず立ち上がった。職場の同僚たちの視線が一斉に注がれたのに気づくと、イツキは小さな声で「あ、すみません……」とつぶやき、ゆっくりと腰を下ろした。
「ヤマモト、いよいよか!」
「はい、いよいよみたいです」
ハリさんの声に、イツキは照れくさそうにうなずいた。
「よし、急いで行ってこい」
「え、いいんですか……」
せわしなく業務に勤しむ同僚たちに、イツキは遠慮がちな視線をやった。猫の手も借りたくなるような忙しさの中でひとり戦線離脱することが、どれだけ周囲に迷惑をかけることかは痛いほど理解している。しかし、職場の仲間たちは、そろって祝福の笑顔を浮かべてくれていた。
「みなさん……ありがとうございます」
もう一度立ち上がって深々と頭を下げるイツキに、タクヤが右の手のひらを差し出した。そこに向かって、イツキがパチンと自分の手のひらを重ね合わせる。
「先輩パパとして、いろいろ教えてくれよな」
「おう、任せとけ」
イツキはパソコンを閉じ、スマホをポケットにねじ込むと、ふたたび同僚たちに向かって深く頭を下げた。
「ヤマモト家の安産を祈願して、みんなで万歳三唱でもするか」
「ハリさん、やめてくださいよ。戦地へ出兵するわけじゃないんですから」
この三年間でさらに体重が増加したふくよかな上司は、「そうか……」と物足りなさそうな表情を浮かべながらも、気を取り直して音頭を取った。それに合わせて、同僚たちがイツキに向かって思いのこもった拍手を送った。
職場を出て、駅までの慣れた道を歩き出す。無意識のうちに、ぐんぐん歩幅が広がる。通行人を次々と追い抜いていく。あっという間に駅へと着いた。自動改札でSuicaをかざすが、なぜだか反応しない。二度、三度とかざして、ようやく通り抜けた。
午後の地下鉄には、朝の通勤ラッシュ時とはまるで別世界の穏やかな時間が流れていた。イツキはドア付近にもたれかり、ポケットからスマホを取り出そうとしたが、すぐそばにベビーカーの親子連れがいるのに気がついた。
「何ヶ月ですか?」
本来は人見知りであるはずなのに、気づくと自分から話しかけていることに驚いた。
「四ヶ月です」
「へえ、かわいいですね」
イツキは天使のように愛らしい赤ん坊の笑顔が見たくて、とっさに変顔をしてみせた。ベビーカーの中の天使はちょっと驚いたような顔をしたかと思うと、今度はすぐに笑顔が浮かんだ。そのくるくると変わる表情の変化にすっかり心を奪われたイツキは、さっきとはまた違うおどけた顔をしてみせた。そんなことを繰り返していると、まもなく地下鉄が駅のプラットホームに滑り込んだ。
地下鉄の駅を出て、サトカの待つ病院へと向かう。すっかり通い慣れた道のりを歩きながら、イツキはこの三年間の歩みを振り返っていた。
サトカと二人でパソコンの画面を見つめながら、震える指先で精子バンクのサイトへアクセスした。
見ず知らずの素性もわからない男性の精子がサトカの卵子と交わることに、胸を焼かれるほどの苦しみがあった。
不妊治療専門のクリニックを訪れたが、パートナーである男性の承諾を求められ、戸籍上は女性であるイツキにはその任が務まらなかった。
親友のジンもやはり戸籍上は女性であるため途方に暮れていたが、同僚のタクヤが「俺でよければ」と名乗り出てくれたおかげで、なんとか窮地を乗り越えられた。
保険が適用されない体外受精に三度続けて失敗し、百万円近くが水泡に帰した。貯金も底をつき、あきらめかけていたところに、サトカの両親が「どうしても跡継ぎが欲しいから」と資金援助をしてくれた。
そうして手にした四度目のチャレンジで、ようやく妊娠という生命の奇跡にたどり着けた。
「なんでここまでして……」
心が折れそうになったことは、一度や二度ではない。しかし、サトカは「もうやめよう」とは口にしなかった。精神的なダメージだけでなく、肉体にかかる負荷も相当なものがあるはずだった。それでもサトカは、母になるという意志を決して曲げようとはしなかった。
大学病院の正門に到着すると、イツキは空を見上げ、大きく息を吐き出した。
「ふう」
四月を待ちきれないのか、昼下がりの陽光はすっかり春らしい色彩を帯びていた。院内の駐車場には何本もの桜が植えられている。ふと視線を上げると、力強い生命の息吹を感じさせる蕾はいよいよ膨らんで、薄紅色の美しい花びらを開く準備に入っていた。
エレベーターで五階に上がる。壁の表示に従い、陣痛室へと向かった。廊下を奥まで進むと、カーテンで仕切られている部屋が三つあるのが見えた。いちばん右側のカーテンの奥から、サトカの話し声が聞こえる。
「あ、イツキです」
間違いがあってはいけないので、一応外から声をけた。カーテンを開けてくれたのは、昨日からイツキの家に泊まり込んでいたサトカの母、順子だった。
「あら、イツキさん。早かったわね」
「はい、会社のみんながもう行っていいからと送り出してくれて」
順子に挨拶を済ませて部屋の中を覗くと、ベッドには水色のマタニティガウンを着たサトカが座っていた。
「お疲れさーん。ホント、早かったね」
「あれ、寝てなくていいの?」
「うん、初産だとまだここから長くかかるみたい。ほら、いまから横になってたら飽きちゃうじゃん」
サトカらしい答えに、イツキは思わず苦笑した。
「うっ」
突然、サトカが顔をしかめる。
「え、だいじょうぶ?」
「うう……はあ。まだね、これが十分おきくらいに来るの。この間隔が一分とかになって子宮口が開いてきたら、いよいよ分娩室に移るんだって」
「そっか」
イツキは病院に到着してからというもの、自分の身体が宙に浮いているのではないかと思うほど落ち着きを失っていた。だが、サトカの初産とは思えないほど堂々とした態度にようやく平静を取り戻しつつあった。
「うーん、いまのうちトイレ行ってこようかな」
「あ、一緒に行こうか?」
「ありがと。でも、まだ一人で平気」
サトカがカーテンの外に出て行くと、部屋にはイツキと順子だけが残った。茶色いソファに腰掛けた義母は、あらためてイツキに顔を向けた。
「イツキさん」
「はい」
「いよいよね」
「ですね……」
「ここまで、長かった……」
「はい……」
三年前に湯河原の実家を訪れ、パートナーとして生きていくこと、子どもをつくることを報告してからは、順子も宗弘もひとたび態度を軟化させた。一年目には何度か食事を共にし、二年目には「お義父さん」「お義母さん」と呼べるようになり、そして三年目の正月には旅館の手伝いをした。いまでは、すっかり婿のような扱いを受けている。
「イツキさん、初めてあった日のこと……覚えてる?」
「あの、新宿のカフェの」
「そう、あのときはごめんなさいね。娘と別れろ、だなんて言って」
「いえ、なんというか……当然だと思います。親として」
イツキはそう言いながら、頬の内側を軽く噛んだ。
「あの日の帰り道ね、私、初めてあの人が泣くところを見たの」
「え、あの人……って、お義父さんですか?」
「そう。私に向かって、『かあさん、私たちはいったい何を守ろうとしてるんだろうね。いい青年じゃないか』って」
「お義父さんが……」
イツキは胸を詰まらせながら、最近はずいぶんと白髪が目立ってきた生真面目そうな義父の顔を思い浮かべた。
「いまではね、お酒を飲むとこう言うのよ。俺にもやっと息子ができてうれしいって」
「そんな……」
カーテンが開いた。
「二人でなに話してるの?」
「何でもない。あなたの悪口よ」
「え、ひど……ちょっと、イツキ、どういうこと?」
「えっ、いや。お義母さんとのナイショだよ」
「ええ、何それ……ううっ……ううっ……はあ……」
サトカの顔が苦痛に歪む。
「ふう……ふう……ちょっとずつ、間隔も狭まってきたみたい」
イツキはそっとサトカのふくらんだお腹に手を当てると、ゆっくりと撫で回した。
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