新作小説『ヒゲとナプキン』 #2
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部屋着の上にパーカーを羽織っただけの格好で家を出たイツキは、少し肌寒さを感じて胸の前で腕組みをした。コンバースのスニーカーで固めた足元がやけに重たく感じられるのは、さっきよりも少し痛みが増した子宮のせいだけではなさそうだった。街灯に照らされた自分の影が長く伸びる。「これくらいの背丈があればいいのに」と心の中でつぶやきながら足元の小石を蹴った。一六二センチ。女性にしては平均的だが、男性としては確実にチビだった。
自宅から最寄りのコンビニが近づいてきた。イツキは歩くスピードを緩めると、何気ない素振りで店内に視線を注いだ。買い物客がいる様子はない。店内で例のブツを物色する自分に、店員の視線が痛いほど降り注がれる光景が脳内で再生される。イツキは立ち止まることなく、そのまま駅前の商店街に向けて歩を進めた。
コンビニを通り過ぎてしばらくすると、散歩中の犬に激しく吠えかかられた。飼い主から何度も頭を下げられる。「いえ、いいんですよ」とにこやかに応対したが、角を曲がったところで、「今日はツイてないや」とつぶやいた。それを言うなら、この人生そのものがツイていないのかもしれない。
ようやく表通りに出た頃には、寒さが体になじんでいた。「どんな辛苦でも人間は次第に慣れていくものなのかもしれないな」などと大げさなことを考えながらパーカーのポケットに手を突っ込んだ。赤く灯る信号を見上げる。駅前のコンビニまでは、もう数分だ。
この町に越してきて二年になる。大学を卒業後、「女性として」IT企業に就職。人事部で三年間働いた。そこで貯めた資金で乳房を切除。男性ホルモンの投与も開始した。本来与えられるはずだった男性としての容姿をようやく手に入れ、再出発の地として選んだのが、いま勤務している旅行会社だ。決して給料がいいわけではない。だが、昔から好きだった旅を仕事にできていることには一定の満足感があった。
サトカと出会ったのも、その頃だった。親友のジンがバーデンダーを務める新宿二丁目のショットバー。そこで仕事帰りにグラスを傾けていると、同じく常連客として店に通うサトカとちょくちょく顔を合わせるようになった。雑誌やWEBの編集者として働く彼女は、ある企画の取材でこの店を訪れて以来、雰囲気を気に入って通ってくれるようになったのだとジンから聞かされた。
何ひとつ飾ろうとせず、ビールグラスを片手にあけすけに自分のことを語るサトカの存在は、物心がついた頃から自分が何者であるかをひた隠しに生きてきたイツキにとってあまりに光量が強く、眩しいほどだった。しかし、その眩しさが憧憬に、そしていつしか恋心へと変化していくのに、それほど時間はかからなかった。
出会ってしばらくして、イツキはみずからのややこしい境遇を告白した。
「へえ」
サトカはとくに驚くでも、ありふれた同情を振りまくでもなく、ただイツキの言葉を受け止めた。カミングアウトなんて大それた言葉を使うのがバカらしくなるほど、サトカはそれまでと何ひとつ変わらない眼差しを向けてくれた。
「好きだ」と伝えた。「知ってる」と笑われた。その翌月から、サトカのマンションに転がり込むようにして同居生活が始まった。
気づくとコンビニの前まで来ていた。イツキはあわててデニムの尻ポケットからスマホを取り出し、そのまま右耳に当てた。誰かから着信があったわけではない。誰かに発信しているでもない。無音のスマホを耳に押し当てたまま、イツキはすっと自動扉の前に立った。
「うん、うん。いまコンビニ入った。探してみる。ちょっと待ってて」
店員の「いらっしゃいませ」という声が自分に届くことを遮断するように、イツキは誰とつながっているでもないスマホに話しかけた。
「え、だいたいどのへん? ああ、文房具とかの、うん、その奥のほう?」
目当ての場所を知らないフリをするという小芝居は、大きな傷を覆い隠すための絆創膏のようなものだった。絆創膏ほどのサイズではとても隠しきれるほどの傷ではなかったが、何も貼らないよりは幾分マシだった。
「ああ、あった、あった。これね。いくつかあるけど、どれがいいの?」
誰も答えてなどくれない。答えは自分がよく知っている。
「わかった。このボディフィットというやつね。羽つき? はいはい」
望んでもいないのに、時折どうしても必要となる厄介な商品をレジに持っていく。安全装置であるスマホは、まだ手放すことができない。
「ほかには何もいらない? え、アイス? この陽気じゃ寒いだろ」
家人との会話を装いながらレジカウンターに商品を置くと、イツキはデニムのポケットから財布を取り出した。レジ回りにはカボチャをあしらったハロウィン関連の商品が所狭しと並べられている。
「ただいまハロウィンのキャンペーン中でして……」
「あ、結構です」
店員のマニュアル通りの接客を短い言葉で制すと、イツキは清算の済んだ生理用ナプキンを素早くリュックサックにしまった。
「ありがとうございました〜」
たいして心がこもっているとも思えない挨拶に見送られながら自動扉の外に出たイツキは、それまで大事に握りしめていたスマホを無造作にデニムのポケットに押し込むと、思わず毒づいた。
「こちとら、もう仮装にはうんざりなんだよ」
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