連載小説『ヒゲとナプキン』 #11
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眼下に広がる暗闇に、ひとりの男を見つけた。細身でなで肩の男は、一本のロープの上を歩いている。そろり、そろりと細心の注意を払って足を出す。ひとたび踏み外せば、奈落の底だ。よく見れば、それはイツキ自身だった。
ロープの上を歩くイツキは、両手を広げて必死にバランスを取っていた。その顔は蝋でコーティングされているかのように青白く、視線は伏し目がちに左右へ行ったり来たりしている。かすかに震える足が、一歩、また一歩とロープを捕らえていく。
ロープの下に目を転じる。そこには芥川龍之介の『蜘蛛の糸』で読んだように、おびただしい数の地獄の住人が待ち受けている。ならば、イツキはカンダタか。罪状は何だろう。性別を隠していたことは、殺人や放火にも等しい罪に当たるのか。それでも、ひとたびロープから落ちれば、ひとたまりもなく彼らの餌食となる。
「あっ」
突如、一陣の風に煽られた。足元からバランスを崩したイツキは空中でクロールのように両手をかいてみせる。しかし、ついにこらえきれず、イツキはロープの上から姿を消した。
固く目を閉じる。深い暗闇へと吸い込まれていく。脳天は下を向いたまま。このまま奈落の底に叩きつけられ、肉体は散り散りになるのだろうか。ふと、脳裏にサトカの顔が浮かんだ。こちらの心を見透かすような微笑みは、どこかモナリザを思わせた。
覚悟を決めたイツキは、しかし全身を包み込む弾力を感じた。右手をそっと握ってみる。動く。続いて、左手。こちらも無事だ。右足と左足を交互に動かしてみたが、どちらも脳から受けた信号の通りに機能した。
恐る恐る目を開けると、イツキはハンモックのような巨大な網の上にいた。奈落の底だと思っていたその世界は、いつのまにか桜が咲き誇る春のようなやわらかな光に満ちていた。地獄の住人とやらも、いまのところは見当たらない。
サトカはどこだろう。明るさにまだ目が慣れない。イツキは目を細めながら、モナリザの微笑を探した。初めて視線を遠くまでやってみたが、どこにもその姿を見つけることはできなかった。
ギギギギギーッ。電車が軋む音に、目が覚めた。
「沼袋、沼袋——」
聞き慣れた車内アナウンスに慌てて身体を起こすと、イツキは妙にリアルだった夢を振り返る間もなく、弾けたポップコーンのように車内からホームへと飛び出した。
いつから眠っていたのだろう。三軒をはしごしたところまでは覚えている。自身の許容量を超えてまで痛飲したのは、ハリさんに風俗のお供にされるのを防ぐためだけではない。ついに新しい世界の扉を開いた、自分自身への祝い酒でもあった。
改札を抜けた。ロープの上でもないのに、足元がおぼつかない。
「縦の糸はあなた〜 横の糸は私〜」
思わず鼻歌がついて出た。その曲が、中島みゆきの『糸』だったことに自分でも驚いた。母が夕食の支度をしながら、よく台所で口ずさんでいた歌だ。いま思えば、母がその歌を口ずさむ日は決まって父の帰りが早かった。
「織りなす布は〜 いつか誰かを〜」
イツキはいつかナプキンを買ったコンビニを横目に、上機嫌で鼻歌を続けた。
玄関にたどり着いたときには、すでに午前一時を回っていた。サトカを起こさないように、そっと鍵を開ける。できるだけ足音を立てないように廊下を進むと、リビングから灯りが漏れている。
「あれ、サトカ?」
リビングへと続く扉を開けると、ソファではサトカが寝息を立てていた。イツキを待っている間にそのまま眠ってしまったのだろうか。イツキは息を潜めて近づくと、その寝顔を上から覗き込んだ。探し求めていたモナリザの口は半開きだったが、それはそれで愛おしかった。イツキは酒臭い顔をサトカの頭上まで持ってくると、その額にそっと唇を押し当てた。
ブブッ。
その瞬間、ローテーブルの上に置いてあったサトカのスマホが震えた。イツキは無意識に視線を向けた。誰かからメッセージが入ったようだ。
[ATSUSHI]今日はありがとう。もう会いたい。
「もう会いたい」
「もう会いたい」
「もう会いたい」
どういうことだ。ATSUSHIって誰だ。今日はサトカも同僚と飲みに行くと言っていたはずだ。頭の中にいくつもの疑問が浮かぶ。ただでさえ酔いで高まっている心拍数が、ぐんぐん上がる。
イツキは一度、目を閉じた。このまま見なかったことにするのが大人の作法に違いない。恋人のスマホなど見ても、いいことなどあるはずがない。たまたまバーで会った男に口説かれただけだ。相手があまりにしつこかったため、仕方なくLINEを教えたのだ——瞬時にこしらえた仮想ストーリーは、しかし「もう会いたい」の破壊力には敵わなかった。
イツキは「三回だけ」と心に決めた。サトカのスマホを手に取ってホームボタンを押すと、パスコードを入力する画面が表示された。
「198959」
素直にサトカの生年月日を打ち込んでみたが、画面には「やり直し」の文字。さすがに、こんな簡単なパスコードにするはずがない。後悔したが、あとの祭り。残り二回。
「310310」
サト(310)、サト(310)とニックネームから語呂合わせをしてみたが、あえなく撃沈。残り一回。
イツキは祈るような気持ちで最後の六桁を打ち込んだ。しかし、その祈りは的中してほしいという願いなのか、それとも外れてほしいという願いなのか、自分でもよくわかっていなかった。
「591116」
サトカの誕生日である五月九日と、イツキの誕生日である十一月十六日を組み合わせた六桁は、はたしてパンドラの匣を開けてしまった。
パスコードが解除されると、画面には最後に表示していた内容が映し出される。それは、ATSUSHIとのトーク履歴だった。
「少しでも笑顔が見れてよかったよ」
「俺でよければ、すぐに飛んでいくから」
「あ、帰り際に探してたピアス、見つかった?」
そこには、とてもバーで口説かれただけとは思えない親密さを示すメッセージの数々が並んでいた。ピアスはどこでなくしたのだろう。このATSUSHIという男と飲んでいるときだろうか。それとも飲んだ後に——。
イツキは何度も、何度も画面を上へとスクロールさせた。ふと、一ヶ月ほど前のある会話が目に止まった。
[ATSUSHI]ごめん、ずいぶん遅くなっちゃったけど大丈夫だった?
[サトカ]うん、大丈夫。今日もありがと。
[ATSUSHI]メシ食わないままだったから、腹減っただろ。
[サトカ]これから駅前でたこ焼きでも買って帰るよ。
イツキは慌てて自分のスマホを取り出し、カレンダーを開いた。二人が会話を交わしている日をもう一度、確認する。それは、イツキの下半身からだらりと忌まわしい血が流れ出した夜だった。
「奈落の、底だよ……」
イツキは二つのスマホを手にして、力なくつぶやいた。
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