私も“無敵の人”になるところだった。
安倍元総理の銃撃事件から一週間が経った。この一週間、参院選の投開票日なども含めて、個人的にはあまりに様々なことがあったため、もっと時間が経過しているかのように思えるが、まだ一週間だ。
事件当初は、政治的思想によるものかと思われていたが、この一週間で少しずつ事件の背景が判明しつつあり、新興宗教による搾取とそれによる家族の崩壊という構図が見えてきた。
どんな理由にせよ暴力が許されるものではないが、山上徹也容疑者の境遇がつまびらかになっていくことで、そこに一掬の同情を禁じ得なかった人も少なからず存在したのではないだろうか。
少なくとも私は、幼い頃に父親を自死により失い、残された母親が信仰に傾倒し、1億円を超える献金により家族を困窮させていったという報道を見て(それが事実ならば)、彼の壮絶な生い立ちに胸が苦しくなった。
山上容疑者をはじめ、こうした事件を起こす人々のことを、世間は「無敵の人」と呼んだりする。無敵の人とは、ひろゆき氏が命名したワードで、彼はすでに2008年からブログでこのような文章を書き、警鐘を鳴らしている。
また、ひろゆき氏は、昨年11月にも京王線の車内で起こった“ジョーカー男”による犯行に際しても、次のようなコメントを残している。
これらのコメントに、私は深く共感する。私は2017年に5ヶ月ほど欧州に滞在していたのだが、当時は欧州各地で移民2世、3世によるテロが続発していた。社会から彼らを排除していくのではなく、むしろ彼らの存在を包摂していくことは、移民2世、3世である彼らのためだけでなく、一般市民のため、治安維持のためでもあると実感させられた貴重な経験だった。
一方、私はわずかながら、“無敵の人”と呼ばれる彼らの心境が理解できないわけでもない。というのも——。
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