新作小説『ヒゲとナプキン』 #4
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「おい、そろそろメシ行くか」
ハリさんが伸びをするように弛みきった体を後ろに預けると、キャスター付きの椅子が軋むような音を上げた。
「今日は何食います?」
ハリさんの言葉に、タクヤはパソコンを打っていた手を止めて振り向いた。
「ひさしぶりに中華でも行くか。あそこの担々麺が恋しくなってきたわ」
「いいっすね。イツキも行くだろ?」
「おお、行く行く」
三人はオフィスから徒歩数分の場所にある、こじんまりした中華料理店に入った。ハリさんが予告通りに坦々麺を注文すると、タクヤはいつも通りに「俺もそれで」と続く。イツキが麻婆豆腐定食か酢豚定食かで迷っているうちに、タクヤはピッチャーから手早く三人分の水を注いだ。
「あ、じゃあ酢豚定食で……」
イツキがメニューから顔を上げると、店員は厨房に向かって三人分のオーダーを大声で復唱しながら、せわしなく次のテーブルに向かっていった。
「ヤマモト、この前、おまえが企画したイスラエル旅行、ずいぶん好評だったらしいな」
脂ぎった顔のハリさんから、初めて自分から発案したツアー旅行を褒められ、イツキは胸をなでおろした。ハリさんは温厚で部下の面倒見もいいのだが、なぜかオフィス内では口数が少なく、こうしてランチや飲みの席に付き合わないと本心が見えてこないのが玉に瑕だった。
「そうなんですよ。初めての試みでどうなるかと思ったのですが、ご参加いただいたお客様からは概ねご好評いただきました」
「よかったな。まあ、俺はイスラエルなんて行こうとも思わないけど。そもそも、イスラエルなんて、どこにそんなに魅力的があるんだ」
「主にテルアビブとエルサレムという二都市の観光になるんですけど、この二都市が車で一時間ほどしか離れてないのに対照的なんですよ。かたやカリフォルニアのような開放的な雰囲気でイケイケですし、かたや厳かな宗教都市でユダヤ教、キリスト教、イスラム教と三つの宗教の聖地がありますし……」
「いや、それはプレゼンのときに聞いたけどよ。そんなとこ行きたいと思うもんかね」
ハリさんは昔ながらの旅行業界の人間で、ずっとハワイやフランス、イタリアなど人気観光地を中心としたツアーを組んできた。その戦略でかなりの売り上げを叩き出してきたという自負があるぶん、自分が知らない土地に対しては懐疑的になる傾向があった。
「でも、まあ結果がすべてだからな。お客様が満足したなら、それでよし。おまえ、バックパッカーとして世界中を回ってたんだろ。だったら、他にもアリだなと思うような国、またプレゼンしてみろ」
「はい、ありがとうございます!」
それまで、ずっと机の下でスマホをいじっていたタクヤは、会話が途切れた瞬間、抜群のタイミングで割り込んできた。
「でも、ハリさんの場合、仕事でハワイとかヨーロッパとか、みんなが行きたいと思うような場所に行っちゃってるわけですよね。その場合、自分が休みのときって、どんなとこ行くんですか?」
「俺か? 俺はまあ、もっぱらマカオかな。ほら、あそこはギャンブルもあるし、ムフフもあるからな」
「ムフフもあるって、ハリさん、完全にオッサン発言じゃないっすか」
「オッサンなんだから、いいだろ。何か文句あるか!」
上司と部下の軽妙なやりとりを、イツキはいつも傍観者として楽しんでいた。
「そうだ。ヤマモトは世界一周してみて、どこか面白いムフフスポット見つけたか?」
「ムフフ……スポットですか? いや、特になかったですねえ」
「ウソつけ、この野郎。年頃の男が世界中を旅して、そういう場所に行かないわけがないだろう。ケチケチせずに教えろよ」
「そ、そうっすよね……。でも、ほら、あの当時はとにかくカネがなかったですから」
そう言って頭をかいた。カネがないのも事実ではあったが、本当の理由は別にあった。
性欲がないわけではない。女性と性行為に耽ることには、欲も関心もある。だが、カネで女性のカラダを求めたところで、イツキには設定すべきゴールがなかった。発射すべきものがないイツキにとって、気持ちの通っていない女性と一夜を共にする行為は、みずからの肉体に対する違和感と恨めしさの輪郭をより明確にするだけだったのだ。
「でも、まあ……」
イツキは考えるフリをしながら、世界中の安宿でバックパッカーたちが夜遊び情報を交換し合う場面を思い出していた。拙い英語でみずからの複雑な境遇を正しく説明する自信がなかったイツキは、いつも聞きかじった情報をさも自分が経験したかのように披露していた。
「やっぱりオランダの飾り窓とかですかね」
世界中の男たちにさんざん吐いてきた嘘をハリさんの前で数年ぶりに取り出すと、当時の虚しさがくっきりと蘇った。
ランチを平らげ、三人は中華料理店を後にした。渡りかけた横断歩道の信号が点滅を始めたタイミングで、イツキは「あ、僕、コーヒー買ってきます」と後ずさりして二人を見送った。三人揃ってオフィスに戻ることになれば、その流れで一緒にトイレへ行くことになる。毎回、個室を利用していれば、やがて不審に思われるだろう。
コンビニで缶コーヒーを買い、店を出たところでプルタブを引いた。毎日のように体内に流し込む液体の苦味は、もはやコーヒー本来の味わいなのかわからなくなっていた。
オフィスに戻ったイツキは、男性用トイレの前まで行ってひと気がないことを確認した。トイレの近くまで来ると、自分の足音が気になってどうしても摺り足気味になってしまうのは昔からの習性だ。他の誰よりも重たく感じているだろうネズミ色の扉を開けて中に入ると、右側には立ち小便をするための“朝顔”と呼ばれる便器が並んでいる。
「ふう」
それらを恨めしそうに見つめながら力なくため息をついたイツキは、朝顔とは反対側に並ぶ個室のドアを開けて、冷たい便座の上に腰を下ろした。
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