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連載小説『ヒゲとナプキン』 #31

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 イツキに「伝えなければいけないことがある」と言ったきり、父のシゲルは黙り込んでしまった。口を開いてはみるものの、何かを言いかけては言葉が出ず、また口をつぐむという繰り返しだった。

「なんだよ」

 しびれを切らしたイツキが、腕組みをしながら苛立ちをぶつける。

「うん、ああ……」

 それでもシゲルは切り出すことができず、ため息をついては、また黙り込んだ。

「母さん、どういうことなの?」

 父では埒が明かないと見たのか、イツキは母のフミエに迫った。だが、フミエも鼻をすするばかりで、一向に答えをくれる様子はない。壁時計の秒針が、ただいたずらに時を刻むばかりだった。

「話があるのか、ないのか。はっきりしてよ」

 イツキが語気を強めると、ついに観念したようにシゲルが口を開いた。

「すまん……すまん」

 消え入りそうな声で謝ると、シゲルは両手を握りしめて膝の上に置き、無理やりに背筋を伸ばした。

「あのな、イツキ……」

 シゲルのまっすぐな視線に、思わずイツキの背筋も伸びた。

「私と母さんは……その……おまえと血がつながってないんだ」

「はっ?」

 イツキはさっきまでの苛立ちを引きずるかのような荒い声を出した。事態はよく飲み込めていなかったが、心拍数がぐんぐん上がっていることだけは感じ取れた。

「私と母さんは……おまえと血がつながってないんだ」

 シゲルが、低い声で、もう一度つぶやいた。

「いや、だからさ……何こんなときに冗談言ってんの?」

 冗談ではないことなど、緊迫した空気から十分に伝わっていた。それでも、そう言わずにはいられなかった。冗談であってほしいと心から願ったが、しかし、フミエのすすり泣きがさらにボリュームを増したことで、その願いは脆くも打ち砕かれたことを知らされた。

「ねえ、待って。どういうこと?」

 声が震えていた。心拍数はさらに上がっていく。腋からは大量に汗が流れ出している。

 シゲルは目を閉じたまま、ゆっくりと語り始めた。

「本当の親じゃない、などという言い方だけはしたくない。私たちは本当の子どもだと思って、おまえを育ててきたつもりだ。ただ……」

 シゲルはそこで言葉を詰まらせた。イツキは固唾を飲んで、次の言葉を待っている。

「ただ……生みの親は、私たちではない」

 糸が、切れた音がした。キーンという耳の奥から聞こえてくる音が、どんどん大きくなっていく。

(生みの親は、私たちではない)

(生みの親は、私たちではない)

(生みの親は、私たちではない)

 耳で聞いてもよく意味がわからなかったので、頭の中で文字にしてみることにした。それでも、やっぱり理解ができなかった。思考回路がひどく混線しているようで、どうにも物事を考えることができなくなっていた。

 イツキは息継ぎがうまくできず、まるで水中で溺れているかのように言葉を振り絞った。

「それで……じゃあ……生みの親は……どこにいるの?」

 シゲルは目をつぶったまま、声を震わせた。

「もう、いないんだ。おまえが一歳になる直前……事故で死んでしまったんだ」

 シゲルが言い終わると、となりでフミエが声を上げて泣き崩れた。イツキはその姿をただ呆然と眺めていた。

 不思議と涙は流れなかった。実の両親が亡くなっていたと聞かされても、顔もわからなければ、名前も知らない。実感が湧くはずもなく、「悲しい」という感情にたどり着くには、幾重にも積み重なった地層をかき分けていくような作業が必要となりそうだった。

 シゲルは訥々と語り続けた。イツキは能面のような表情でそれを聞いていた。

 イツキを生んだ両親は、飲酒運転の被害に遭って亡くなったこと。母親が身を呈して守ってくれたことで、幼いイツキだけは一命を取り留めたこと。それぞれの祖父母にイツキを育てていく余裕がなかったため、イツキの父の親友だったシゲルが親となることを申し出たこと——。

「そこからは……コズエと分け隔てなく、本当の親だと思って接してきたつもりだ」

 シゲルの声はかすかに震えていたが、しかしその表情には凛とした強さがあった。

「よくわかんない」

「ああ……」

「よくわかんないよ……」

 初めて、涙がこぼれた。だが、それがどんな涙なのか、自分でもわからなかった。それは、天涯孤独である境遇に対する自己憐憫なのかもしれなかった。しかし、こうして育ててくれた両親の目の前で、「天涯孤独」などという言葉を思い浮かべてしまうこと自体に、ひどく罪悪感を覚えた。

「なんで……いままで黙ってたの?」

 イツキの問いかけに、今度はシゲルに代わって、母のフミエが口を開いた。

「隠してたわけじゃないのよ。ちゃんと言おうと思ってた……」

「だって、現に今日まで隠してたじゃん」

 イツキが弱々しく、口を尖らせた。

「あなたがお父さんにカミングアウトしてくれたあの日のこと、イツキ覚えてる?」

「当たり前だろ」

「あなたが『話がある』と言ったとき、お父さんも『話がある』と言ってたでしょ」

「あ、そう……いえば」

 フミエはちらりと横目にシゲルへと視線を送ると、ふたたびイツキへと向き直った。

「前から二人で決めてたの……イツキが二十歳になったら伝えようって」

「えっ」

「だけど、イツキが先に話すと言って、結局、ああなってしまった……」

「うん……」

「お父さん、ずっと後悔してるのよ。あのとき、俺が先に話してたら、また違う状況だったんじゃないかって」

「そんなこと……」

 イツキの言葉は、最後まで続かなかった。

 なぜもっと早くに伝えてくれなかったのだという憤りは、なぜもっと早くに父と向き合わなかったのだというブーメランとなって自分を切り裂いた。だが、知っていたとして、どうなっていたのだろう。知っていたとして、何が変わっていたのだろう——。

 その先を考える余力が、いまのイツキには残されていなかった。

「ごめん、ちょっと疲れた……先に休むわ」

 イツキはゆっくりと立ち上がると、おぼつかない足取りでかつての寝室へと向かった。

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