連載小説『ヒゲとナプキン』 #25
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イツキは白い息を吐き出しながら、姉のコズエが住むマンションのインターホンを鳴らした。
「はい、どうぞー」
愛想のない返事と同時に、玄関の自動扉が開く。イツキは軽い足取りでマンションの中へと向かった。
冷凍庫の中にいるかのように冷えきった街中を歩いてきたイツキにとって、コズエの家の温められた空気は体じゅうの筋肉を弛緩させた。そして、コズエの腕に抱かれてやってきたマコトのまんまるな目を見ると、サトカや父親とのことで縮こまっていた心までが弛緩していくようだった。
「今日はどうしたの? このまえ来たばっかりじゃない」
「悪かったな、ちょくちょく来て。マコトにクリスマスプレゼント持ってきた」
「あら、ありがと。よかったねえ、マコト」
幼い頃から愛嬌がないと言われ続けてきた姉が、つい数ヶ月前に生まれたばかりの息子には一オクターブ高い声で話しかけている。そんなコズエの姿が、イツキにはうれしくもあり、ちょっぴり可笑しくもあった。だが、マコトの天使のように愛くるしい笑顔を見ていると、コズエが “キャラ変”してしまうのも納得ができた。
「で、何を持って来てくれたの?」
さっきまでマコトに話しかけていたのとは別人かと思うほど冷静なトーンで、コズエは視線を上げた。
「あ、そうそう絵本なんだけど……」
イツキが背負ってきたリュックサックから真っ赤な包装紙で飾られた包みを取り出した。
「絵本って、この子、まだ三ヶ月よ。読めるわけな……」
「ああ、違う違う。自分で読む用じゃないんだよ。いいから開けてみて」
イツキに促されたコズエは、受け取った包みに細い指を絡めて、真っ赤な包装紙を開いていく。出てきたのは、にっこり笑った犬のイラストが表紙になっている絵本だった。タイトルには『いないいないばああそび』とある。
「これね、ほら。子どもが読むというより、親が読むんだよ。このイラストに合わせて、子どもに向かって、『いない、いない、ばあ』と」
コズエが持つ絵本に手を伸ばして数ページめくったイツキは、そこに描かれている怪獣のイラストと同じように、マコトに向かって「ばあ」とやってみせた。マコトははじめびっくりしたような表情を浮かべ、ただでさえ丸い目をいっそう丸くしていたが、数秒後にはニコッと笑顔を見せた。
「本屋に行って、いろいろ見てたんだけど、なんか、これいいなって。他にも同じような本がいくつもあったんだけど、なんとなく、これがいいなって思ったんだよね」
「へえ、センスいいじゃん。あ、何かあったかいものでも飲む?」
自分で持ってきた絵本を使いながらマコトと戯れるイツキにそう声をかけると、コズエは返事を待つでもなく、「紅茶でも淹れようか」と立ち上がった。
「あ、それよりさ」
イツキに呼び止められ、コズエが振り返る。
「ん?」
「アルバムってある?」
「アルバム?」
「そう、俺らが子どもの頃のアルバム」
コズエは立ち止まって、一瞬、視線を宙に向けて考え込んだ。
「まあ、あるにはあると思うけど、あくまで“私の”アルバムだから、そこまであなたが写ってるわけじゃないと思うよ」
「うん、それでもいいから……見せてもらえないかな」
「まあ、いいけど」
コズエがマコトを抱いて奥の部屋へ向かうと、イツキはひとりリビングに残された。うんと伸びをして真上を見上げると、真っ白な天井が広がっていた。
生まれたときには真っ白なキャンバスであるはずの人生に、それぞれの模様が描かれていく。コズエの人生。イツキの人生。同じ親から生まれ、同じ家に育った姉妹が、いまはまったく別の人生を歩んでいる。
コズエの人生のほうがよかった——サトカと出会う以前だったら、そんなことを思ったのかもしれない。いや、「いまはまったく思わない」と心から言えるだろうか。そして、まだ真っ白なままのマコトは、これからどんな人生を歩んでいくのだろうか。
二冊分のアルバムを握りしめたコズエがリビングに戻ってきた。
「あなたも写ってるのは、この二冊かな。家での写真とか、家族旅行のときとか」
「お、ありがとう」
コズエから受け取った埃っぽい冊子を、イツキはひとまずテーブルの上に広げた。
「それにしても、どういう風の吹き回しよ。これまで家族なんて見向きもしてこなかった人がさあ」
コズエの皮肉交じりの問いかけに、イツキは「ああ、なんとなく」とすぐにバレる嘘をついた。「家族というものを、もう一度、見つめ直してみたくって」などという本音は、顔から火が出るようで口にしたくなかった。
ページをめくると、幼い頃の姉が登場した。三歳上の姉については、「頭がよく、しっかり者」という印象でいたが、アルバムの中のコズエは、また違った印象を与えてくれた。たしかに写真では大人びた表情を見せることもあったが、お気に入りのクマのぬいぐるみを抱えて微笑んでいたり、ソフトクリームを地面に落として泣いていたりと、コズエだって、きちんと子どもだったのだ。
「なんか、姉ちゃん、かわいいじゃん」
「当たり前でしょ、子どもなんだから」
「まあ、そうだよね……」
さらにページをめくると、当時は“妹”だったイツキも登場した。コズエよりも自分のほうが愛嬌のあるタイプだと思っていたが、アルバムを見るとそのイメージとはずいぶん乖離があった。二枚に一枚は、ふてくされているのだ。
無理やり穿かされたスカートの裾を握りしめている幼稚園の入園式。ウサギのぬいぐるみをプレゼントされたものの、耳の部分をつかんで振り回している五歳の誕生日。きれいな着物に千歳飴を持っているが、あきらかに泣きはらした跡が窺える七五三。どの写真も、見事なまでの仏頂面だった。
もちろん、笑顔いっぱいで写っている写真もあった。だが、それらの写真にはすべて共通点があった。父のシゲルとカメラに収まっている写真では、どれも安心しきった、子どもらしい笑顔を浮かべているのだった。
なかでもイツキの目に留まったのは、おかっぱ頭のイツキが、シゲルの膝の上で絵本を読んでもらっている一枚だった。幼児園くらいだろうか。おどけた表情で絵本を読むシゲル。そんな父の顔を、絵本から目を離して、膝の上から見上げるイツキ。それは何かのポスターかと思うほど、理想の親子関係を絵に描いたかのような写真だった。
父の顔を見た。親としての慈愛に満ちた表情で、娘を見つめていた。
娘の顔を見た。親に愛されている喜びを、とびきりの笑顔で伝えていた。
「お父さ……」
言いかけて、言葉に詰まった。
八年前まで、彼のことを何と呼んでいたのだろう。お父さん、父さん、親父——いくつもの呼び名が頭に浮かんだが、どれもしっくり来なかった。八年という年月の重みを、あらためて突きつけられた。
「ねえ、イツキ。よく見て」
「ん?」
コズエは写真の中の絵本を指さしていた。
「姉ちゃん、どうしたんだよ」
「このお父さんが読んでる絵本、これって……」
角度的にわかりづらかったが、表紙にはにっこり笑った犬のイラストが見える。
「え、ちょっと待って。そんなこと……」
コズエはテーブルの上にあったイツキからのプレゼントを手に取ると、最後のほうのページにある出版情報を確認した。そこには、「初版:一九八九年二月一日」とあった。それはコズエが生まれた年。イツキとシゲルが収まるこの写真が撮影されたときには、確実に出版されていたことになる。そう言われてみれば、父のおどけた表情は、「いないいないばあ」をしているところに見えなくもない。
「違うよ、俺。いや、マジで違うってば」
イツキは何かから逃れるかのように、必死に首を横に振った。その慌てぶりを、コズエは笑いをかみ殺しながら眺めている。
「親子なんだねえ……」
コズエがしみじみとつぶやいた。イツキは仕方なくうなだれている。目を閉じたイツキの脳裏には、シゲルの膝の上で無邪気に笑う写真が鮮明に浮かび上がっていた。
「お父、さん……」
今度は、最後まで、声に出すことができた。
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