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連載小説『ヒゲとナプキン』 #15

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「ヤマモト」

「おい、ヤマモト!」

 ハリさんの声が次第に大きくなっていくが、イツキはパソコンに向かったまま振り向こうともしない。キーボードに置かれた手は、もうずいぶん前から止まったままだ。

「イツキ、イツキ……ハリさんが呼んでるぞ」

 隣席のタクヤに突つかれ、ようやく我に返った。

「はいっ」

 思わず大きな声が出てしまい、周囲から失笑が漏れる。イツキは急いで席を立ち、ハリさんのデスクへと向かった。

「なあ、ヤマモト。どうした、何かあったか?」

「いえ、特に何も……」

 イツキはハリさんの前で、萎れた葦のように立っている。その視線は目の前にいる上司をかすめるようにして窓の外に向けられていた。

「ここ数日、ずっとボーッとして何も手につかない様子だぞ」

「すみません……」

イツキは消え入るような声でつぶやいた。

「あれだな、その……」

今度はハリさんが声を潜めた。

「おまえは何があっても男なんだから、そこは気にするな」

「はあ」

ハリさんの見当違いな配慮にも、イツキは気の抜けた返事をすることしかできなかった。

「いいか、おまえは男なんだからクヨクヨするな。どーんと胸を張ってろ」

部内で鍋パーティーをするというのに、なぜか奮発してステーキ用の松阪牛を買ってきたハリさんらしい励ましを受けて自席に戻ると、ちょうどタクヤが電話を取り次いでいるところだった。

「山本でございますね。少々お待ちくださいませ」

タクヤは少し戸惑った表情を浮かべながら、イツキに向かって受話器を差し出した。

「露木さんという方から。お客様ではないっぽいんだけど……」

「えっ」

その名字には、もちろん聞き覚えがあった。だが、サトカなら携帯にかけてくるはずだ。

「もしもし、お電話代わりました。山本です」

「職場にまでお電話して申し訳ありません。サトカの……父です」

「ええっ、ああ……どうも、はじめまして」

イツキは受話器を片手に直立不動の姿勢を取った。

「はい、はい……承知いたしました。それでは十八時に。はい、失礼いたします」

イツキは能面のような顔つきで受話器を置くと、崩れ落ちるようにして自席に座り込んだ。タクヤが心配そうにイツキの顔を覗き込む。

「おい、どうした。誰からだったんだよ」

「地獄の、使者……」

「は? バカなこと言ってないで仕事しろ」

 
定時までの時間がやけに長く感じられたのは、おそらく十分に一回のペースで時計に目をやっていたからだろう。時計の針が十七時ちょうどを指すと、イツキは「失礼します」と声を震わせながら席を立った。ハリさんはタクヤに向かって無言で質問を投げかけたが、タクヤもまた無言で首を横に振ることしかできなかった。

オフィスを出たイツキは、足早に指定された新宿西口のカフェへと向かった。途中、駅のトイレで鏡に向かい、ネクタイを締め直した。こんなことならもう少し品のいいネクタイを締めてくるべきだったと後悔したが、クローゼットの中身を思い浮かべ、そもそも上質なネクタイなど持ち合わせがなかったことに気がついた。

待ち合わせの十分前にはカフェに着いた。あらかじめ席を確保しておこうと中に入ると、スーツを着た細身の男性がボックス席から立ち上がってこちらに視線を向けた。見たところ、六十手前くらいの年齢だろうか。

となりには黒のセーターに黒のジャケットを羽織った品のいい中年女性がかしこまっている。こちらも、スーツ姿の男性と同じ年の頃だ。

イツキが軽く会釈をすると、先方も丁寧に会釈を返してきた。イツキは足早にボックス席へと向かった。

「はじめまして、山本と申します」

「露木です。突然、お呼び立てして申し訳ありません」

「家内の順子です」

たがいに一礼して席に着く。

「サトカが大変お世話になりまして」

「いえ、お世話になっているのはこちらのほうです」

 イツキはテーブルに額がつくほど深く頭を下げながら、サトカの父が口にした「お世話になりまして」という“過去形”を思わせる語尾を気にかけていた。

 ゆっくりと顔を上げ、ようやく目を合わせることができた。白髪混じりの髪は丁寧に整えられ、細面の顔には茶色いフレームの眼鏡がよく似合っている。チャコールグレーのスーツには、ひと目で上質な生地だとわかる光沢があった。

「あらためまして」

 そう言って差し出された名刺には、「湯河原温泉 旅館 草の露  総支配人 露木宗弘」とあった。サトカの実家が湯河原で温泉旅館を営んでいることはもちろん聞いていた。彼女が「いつか二人で行けたら……」と言いかけて、慌てて口をつぐんだのは、まだ付き合い始めてすぐの頃だっただろうか。

 サトカの両親と対面することなど想定していなかった。彼らは“未来”の登場人物だったし、その未来とやらも、サトカと家族になれる望みがない以上、訪れるはずのないものだった。だが、いまイツキの目の前には、その両親が並んで座っている。

「あまりお時間を取らせてもいけませんので、率直に申し上げたいと思います」

 宗弘もまた緊張しているのか、やや早口で本題の入り口に立った。

「あ、はい……」

「私たちは夫婦共働きで、それこそ寝る間も惜しんで先代から伝わる小さな旅館を営んでまいりました。幼い頃から、サトカに淋しい思いをさせてしまった部分はあったかもしれません。ですが、私たちなりに愛情いっぱいに育てたつもりです。あの子は、うちの大切な一人娘なんです」

「ええ、わかります」

「あなたがとても素敵な青年であることはサトカからも伺っております。ですが……」

 実直な人柄をにじませる宗弘の顔は、わかりやすく強張っていた。となりでコーヒーカップを握りしめていた妻に救いを求めるように視線を送る。

「その、何と言いますか……私どもは……」

 普段は気っ風のいい女将なのだろう。だが、コーヒーカップをいじりながら娘を想って口ごもる姿からは、とても本業の一端を窺い知ることはできそうになかった。

「あの、すみません。いまサトカさんはどちらに?」

 二人の煮え切らない様子にしびれを切らしたイツキは、最も気になっていた問いをぶつけた。

「サトカは先週から湯河原に戻っております。よほど仕事が遅くなるときはお友達の家に泊めてもらっているようですが、それ以外は湯河原から都内へ」

 宗弘の答えにひとまず安心したものの、やはり「お友達の家」は気にかかった。ここ数日、ずっと頭に浮かんでは離れない忌まわしき妄想がこの場でまた再生され始めたそのとき、順子が意を決したようにイツキと向き合った。

「身を引いていただけませんでしょうか」

「え」

 声を発しようとしたが、かすれて思うように出ない。イツキは水が入ったグラスをつかみ、喉を湿らせた。順子が畳み掛ける。

「もしもあの子の幸せを願うなら、そちらから身を引いていただけませんでしょうか。もちろん、身勝手なお願いだということは重々承知しております。ですが、私たちも脈々と受け継がれていくべきものを、ここで絶やすわけにはいかないのです」

 女将らしさがここに来て感じられる、説得力と、そして迫力に満ちた言葉だった。

 覚悟していたことではあった。だが、目の前で放たれた言葉は予期していた以上に鋭く、また獰猛だった。

「あの……」

 今度はイツキが言葉に詰まる番だった。下唇を噛み締め、右手で軽くあご髭を撫でる。かすかに震える手でホットコーヒーをすすり、じっと考え込んだ。

「それは……サトカさんが望んでいることなんですか?」

 イツキの言葉に、宗弘と順子が顔を見合わせた。いつのまにか夫に代わって主導権を握っていた妻の順子が、イツキに向かって深くうなずく。

「家族の総意と考えていただければと思います」

 サトカが望む別れなら、どこまでも愛を貫くという大義名分のもとに毒薬を飲み込む覚悟でいた。だが、「娘のために」を主成分としながらも、わずかに「家業のため」が混入された二人の様子からは、サトカの意思を透けて見ることが難しかった。

 イツキはもうひと口だけコーヒーをすすると、ありったけの勇気を出して顔を上げた。

「わざわざ湯河原からお越しくださったのに申し訳ありません。ですが、この場では答えをお示しすることができません。もうしばらく考えるお時間をいただければと思います」

 イツキはそう言って頭を下げると、千円札をテーブルに置き、店を後にした。

「喫茶室ルノアール」の前身は煎餅店で、創業当初は日本茶と煎餅も出していたという話を思い出しながら冷たい風に吹かれていると、小田急や京王などのデパートがひしめくロータリーに出た。見渡す限り、すっかりクリスマス商戦に向けたディスプレイで飾られている。押しつけがましいほど煌びやかな街並みを眺めながら、イツキは首をすくめるようにして駅へと向かった。


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